詩に初めてふれる人に・・


                第6話
             万葉の比喩学


恋は孤悲

       
夏の野の繁みに咲ける姫百合の
       知らえぬ戀はくるしきものを
〔巻8・1500〕

             大伴坂上郎女
(おおともの・さかのうえのいらつめ)

私は小説家・永井路子の『万葉恋歌』というエッセイ集で、万葉集のすばらしさに開眼しました。これからお話する内容は受け売りに過ぎませんが、現代の詩だけが詩ではなく、私たち日本人は和歌という短詩の恩恵に千年前から浴していたことをご紹介したいのです。

一面の夏草に覆われた緑の野原。丈高い草の茂みの陰にひっそりと咲く一輪の姫百合。花に目をとめる者は誰もいません。やがて百合は人知れず散ってゆくほかありません──その百合のように、人知れぬ恋に悩む苦しさ。

作者の大伴坂上郎女は大伴家持の叔母にあたる女性です。よどみない歌い口で赤と緑の鮮やかな絵画的な色彩美の世界が広がっています。
〈夏の野の繁みに咲ける姫百合の〉は序詞
(じょことば)と呼ばれ〈知らえぬ〉という句を飾るための前置きの言葉です。
しかし、
坂上郎女の序詞は単なる序詞でなく、巧みな譬喩(ひゆ)であり象徴の域に達しています。片恋(かたこい)  つまり片思いをテーマにして、これほど詩的情景美にあふれた秀句はないでしょう。

万葉集の中には、「恋」を「孤悲」と書いている例があるそうです。
万葉集の原文は、「万葉仮名」といって種々の漢字をあて字に使用しています。
恋とは確かに、一人でいることが悲しく、愛する人と共にいることを望む気持ちです。それでいながら、仲々一緒にいられないことがさらに人の悲しみを深くする。その苦しみが様々の形の愛の詩を生んでいきます。
「孤悲」とは、実に味わい深い当て字といえるでしょう。

ほのかな眉

       ふりさけて三日月みれば一目見し
       人の眉引
(まよび)きおもほゆるかも〔巻6・994〕

                
大伴家持(おおともの・やかもち)

万葉集では三日月が「初月」「若月」と表記されます。この方が匂い立つような細い月の美しさが感じられます。この歌の「三日月」は、まだ淡々と夕暮れの明るさを漂わせた、昼と夜の間の頼りない時間に浮んでいます。光るほどの輝きもない、ほのかな月。その三日月の描く繊細なカーブが、一度会っただけの女性の美しい眉を連想させます。

万葉の女性は現代と同じく眉墨を使って眉を描いていました。
出合いがほのかだっただけに、より印象的に思い出されるのです。
まるで目に見えるような鮮明な比喩であり、詩的イメージです。

万葉学者の研究によると、作歌時は天平5年(733)家持16歳といわれます。
父母を失った直後で、叔母の坂上郎女に面倒をみてもらっていたようです。
この歌は、才女の叔母の手ほどきを受けた「題詠」  歌のテーマを先きに決めて作歌しています。直前には坂上郎女の初月の歌
(巻6・993)があります。

万葉集も平安朝以後は、多くが題詠で実感が乏しく迫力がないものが多いのですが、この家持の歌は初々しく少年家持の並々ならぬ歌才を暗示しています。
家持の父は大伴旅人
(おおともの・たびと)。奈良朝の高級官僚貴族の一人です。太宰師(だざいのそち)として九州へ赴任し、そこで妻を失いました。
太宰師とは九州全体を統括する長官で、中国との貿易・外交交渉も行う要職でした。

紅葉の挽歌

       秋山の黄葉(もみじ)を茂(しげ)み迷いぬる
       妹
(いも)を求めん山道(やまじ)知らずも〔巻2・208〕

                
柿本人麻呂(かきのもとの・ひとまろ)

〈妹
(いも)〉は女性の恋人を親しみを込めて呼ぶ言葉。英語のマイ・ラヴに当たります。
人麻呂は石見国
(いわみのくに・島根県)に赴任して当地の女性を妻としました。
この歌は離れて暮らしていた妻の死を知らされた直後に詠まれた挽歌のシリーズの一首です。

山に葬られた妻の死を、紅葉が繁茂しているので道に迷ってどこかに行ってしまったと、比喩的に表現しています。妻の面影を求めて、道がわからないと悲嘆にくれながら紅葉の秋山をさまよう人麻呂。
山路をさまようとは、悲しみへの道に深く分け入ることを暗示しています。
「死」という言葉を一切使わず、紅葉の風景に死を重ねた、象徴詩の水準に達している絶唱です。

妻への燃えるような情愛の色、伴侶の死により心が切り裂かれて流れる血の色、様々な詩的イメージが燃え盛る紅葉の色彩に託されていることも見逃せません。あまたの万葉の歌の中で、比喩の美学を代表するものでしょう。


       
永井路子:歴史小説家。『炎環』で直木賞。『氷輪』で
          女流文学賞。代表作に『源頼朝の世界』(大河ドラマ
         「草燃える」の原作)『北条政子』(大河ドラマ「草燃える」
          の原作)など。エッセイ集『万葉恋歌』光文社文庫。



2006年