詩に初めてふれる人に・・


                第1話
           命名は愛の一行詩


◆誰でも一度は詩人になる

普段、私たちは詩とかかわりのない生活を送っています。
詩を読んでも読まなくても日常生活に何の支障もありません。
また、詩に限らず、文学一般にたずさわる仕事を実業と比較して、「虚業」と言い表すこともあります。
ですから、一生、詩に縁遠いまま世を過ごす人もいることでしょう。

ところが、詩に無縁な人でも一度は詩人になる機会があると、詩人・田村隆一が語っています。
その機会とは自分の子供に名前をつける時です。
目鼻もまだ定まらぬ、まったく名前のない者に、命名することは、立派な詩的行為なのです。

考えてみれば、詩を書くというのは、自分の胸の内に動いている、まだ形のない情感に言葉を与える表現活動ではないでしょうか。
詩人が言葉に感情移入するように、親は子供の名前に自分の願いを込めます。
この時だけは、みんなロマンチックな気分になっているはずです。
言葉に感情をこめるのは、詩作の第一歩です。

命名は「愛の一行詩」といってもよいでしょう。
原稿用紙に文字を綴ることだけが、詩ではありません。私たちは普段でも無意識に詩を書くのと同じ心の働きをしているのです。

◆あだ名と詩才

命名という行為は、子供の場合だけではありません。
友達や担任の教師にあだ名をつけることも、詩的行為のバリエーションです。

私の中学時代、英語の女性教師はあごの細い素敵な人でした。級友たちは、この先生に「花王石鹸」とあだ名をつけました。なぜって、花王石鹸のトレードマークは三日月が微笑んだ横顔で、あごの先がとがっていたからです。
また、サラリーマン時代には「深海魚」と呼ばれたコワモテの役員がいました。何を考えているのか、つかみどころがない、というシャレなんですね。

あだ名になると、命名からさらに発展した要素が加わります。それは、対象を表現するのに、自分の気持にぴったりした言葉を選ぶという段階に進みます。
例えば、「濡れ落葉」という言葉があります。
濡れた落葉は、どこまでもペタペタとくっついてくる。それで、一人では行き場がなくて奥さんの後を始終ついてくるご主人を指すようになりました。
同性の身としては、明日は我が身という、まことに同情を禁じ得ない表現ですよね。

このように別の言葉を借りて、よりふさわしい表現をめざし、本質に迫ろうとする方法を専門的には
比喩 と呼んでいます。
ということは、あだ名をつけるのがうまい人は比喩を作る才能に恵まれていると言えるでしょう。

みなさんの身近にいる
人でいつも面白い冗談を言ってみんなを笑わせたり、ユーモアのある言葉を発明するのが上手な人がいたら、きっとその人は詩的才能に富んでいるに違いありませんよ。



2006年
 2話