名詩100選・・



                朝の鏡
         
野田 宇太郎


       
夜来(やらい)の雨が小さな水溜りを作った――
       それは或る朝あけの人げない郊外電車の停留所の片隅のこと。
       今日も遠い勤め通いの娘が一人
       すこし破れた靴を気にしながらやって来て
       一番電車を待っていた。
       その足元の水溜りに
       娘の姿が映り
       娘のうしろの朝やけの雲の薔薇が映り
       うすくれないに娘の周りを染めながら
       少しずつ、少しずつ褪せていった。
       やがて娘はさりげなく
       一番電車で消えてゆくと
       水際にはしばらく空の色だけが流れた。

       それから何時ものように
       朝の停留所は騒がしくなり
       陽はきらきらと照りはじめ
       又何時ものように
       何もなかったとでも云うように
       水溜りは踏みつぶされて乾いていった。
       あの娘も、あの雲の薔薇も
       誰一人知る者もないままに消えていった。

       神様が地上にそっと置いてみて
       また持ち去った、あの水鏡、水溜り。


                
◇ ◆ ◇


普段、誰が水溜りに目をとめるでしょうか。子供の頃なら、水面に逆さに映る街の風景に見とれたこともあるかも知れません。でも大人になると、歩みを妨げられる、無用でうっとうしい存在でしかありません。
ところが、詩人にとっては、取るに足りない水溜りも大切な題材なのです。

この詩の時代背景は、終戦直後、まだ日本が戦災から立ち直っていない頃だといいます。
主人公は、破れた靴を気にしながら、一番電車で通勤している若い女性。作者はこれ以上の説明を加えていませんが、〈破れた靴〉〈一番電車〉という言葉から、主人公の経済的にゆとりのない生活環境を簡潔に暗示させています。

詩の表現は、このように直接的に細かく状況説明をするのではなく、対象の一部分を見せて全体を想像させる方法をとります。暗示、または象徴的手法と呼ばれるものです。
作者がすべてを語るのではなく、読者が想像力によって作品に参加することで、詩の味わいを深めようとします。

遠距離通勤を余儀なくされている娘の姿が、ある朝、水鏡に映ります。
後ろには朝焼けの薔薇色の雲が流れ、娘のシルエットをまるで一幅の名画のように匂い立たせています。
まるでエル・グレコが描く宗教画の聖女のような、神々しい輝きさえ娘が放っていると、私には感じられます。

この鏡は何を映すためにあるのでしょうか。 
人間の目には映らなかった美。神様だけに見えた美。
現実の中に一瞬現れた、幻のような美しさを、鮮やかに映し出す鏡。

誰もが黙殺した、娘のけな げに生きる姿を映すために鏡は置かれたと、作品は語っているかのようです。
何ものをも映し出す、この水鏡のように私たちの姿を、人知れず、あたたかく見つめる詩人の眼差しがあります。

これまで何回、雨道を歩いても、水たまりに対して誰一人、こんな思い方、見方をしたことはないでしょう。
目立たぬもの、無価値なのものに、美しい意味を与えることこそ詩のすばらしさではないでしょうか。
ものに美しい意味を与えることは、物の価値を認めることでもあるのです。
それゆえ、詩作を最も深い愛情に根ざした行為と呼ぶ詩人もいます。
詩人・高田敏子のエッセイに次の言葉があります。

「詩は美しいものを書くものと、一般には思われているようです。美しいことばを探すということも詩の作業のように思われています
私もそのように思っていたのですが、このごろになって解ったことは ”美しいもの”や ”美しいことば”を探すのではなく、日常の中にあるもの一つ一つに、美しい意味を与えることでそのものが、美しい存在となるということなのでしょう。
そして ”美しい”ということも、生の励ましや、反省、目覚めになるとき、それを ”美しい”と感じ、受けとるのだと思います。」
                     
エッセイ集『娘への大切なおくりもの』


2006年
 1選