名詩100選・・
ゆりかごを押す
ガブリエル・ミストラル
やさしい海が 幾千の
波を押す
波の音を聞きながら わたくしは
ゆりかごを押す
夜をさまよい渡る風が
麦を押す
風の歌を聞きながら わたくしは
ゆりかごを押す
おん父は 音もなく 幾千の
巷(ちまた)を押す
暗がりにそのお手を感じ わたくしは
ゆりかごを押す
荒井正道 訳
◇ ◆ ◇
■母なる海
普段、私たちは海を眺めた時に、「波が寄せる」と言います。でも、この詩の作者は、「海が波を押す」と表現しました。なぜでしょう。
答えはゆりかご。海という存在を母親に譬えれば、波は言わば海が生んだ子供となります。母親がゆりかごを押すように、海が我が子である波を押しているのです。作者は海の中に、人と同じ母性を見ているのでしょう。
第二連では風が麦を育てる母として登場します。ゆりかごの眠りの中で幼な子が育つように、夜風が静寂に眠る麦を育くんでいます。
■神様が押す人間の世界
この詩の作者は、ガブリエル・ミストラル(1889〜1957)。
南米チリの女流詩人で1945年度のノーベル文学賞を受賞しています。
麦の描写に触れると、私は南米の大平原の情景に誘われます。
一面の広大な麦畑 それは海原を思わせる風景です。風が麦畑の上を吹きすぎる折の、波頭のような紋様さえ目に浮かぶようです。
三連になると、神様が私たち人間の世界を押しています。
人々が寝静まる夜の街。その夜の街全体を、母親がゆりかごを押すように神様は押しています。昼間の労働で疲れた者、夜の静けさにしばしの安らぎを求める者、追憶に浸る者、すべての者を包み込むように、大いなる慈愛の手が私たちの生を背後から音もなく押しているのです。
この神様の恵みを受けとめながら、母親はゆりかごを押しています
■無限循環する愛
詩の構成を調べると、実に緻密な計算が行われているのがわかります。
押す、という動作の対象として、一連では母→ゆりかご(子)。
海(母)→波(子)。二連では、風(母)→麦(子)。
三連では、神(母)→巷(子)。
ゆりかごを押すという、日常の卑近なところから自然界へ飛躍し、最後は人間の世界から神の世界へ、そして再度、母のゆりかごに戻ります。
人、自然、信仰の世界を無限に循環する普遍の愛をうたった屈指の傑作と言ってよいでしょう。
信仰とは何かと問いかけられて即答できる人はいないでしょう。
でも、この作品を味わうと、すぐれた詩には、伝道にも等しい力があるように思われるのです。
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