わが師わが心・・


                
第5話
            
月曜日の詩集


●無名の詩人を抜擢

1960年(昭和35)3月から朝日新聞家庭欄に写真と組み合わせた詩が毎週一回掲載されました。
作者は、当時まだ無名の詩人だった高田敏子。毎月曜日の夕刊に載ったことで「月曜日の詩」と呼ばれました。
詩の連載は主婦層に爆発的な好評を博して3年余り続き、後に『月曜日の詩集』『続月曜日の詩集』としてまとめられて刊行されています。
新聞という何百万もの読者に提供される公器に載せる以上、専門的で観念的な詩は許されませんでした。
家庭の主婦を対象にした、生活に根ざした題材でなければなりません。
さらに、紙面の制約から、限られた行数で詩的修辞の飾りを捨てた、平明でわかりやすい表現が求められました。


              
ぞうきんがけ

        床をふきながら
        柱に頭をぶつけることがある
        ガラス戸を磨きながら
        小さなトゲをさすことがある
        ああ痛い と ひとり言をいって
        涙を流す
        だあれもいない真昼
        涙はとても素直に
        すっとほおをつたわって落ちる
        痛みが去って またふきはじめる
        涙だけはまだあふれている
        もうそれは
        いまの痛みの涙ではなさそうだ
        三日前にこらえた涙
        一と月前にかくした涙
        二年前の……
        笑いにまぎらわした涙などが
        つぎつぎにあふれてくる

        「ふく」という動作の
        たったひとりの時間のなかで
        私の心もまた
        涙に洗われていることがある

                    
詩集『続月曜日の詩集』1963年

台所のうた、というテーマで書かれた詩の一篇です。
主婦からは切り離せない台所仕事。この詩は、およそ「現代詩」とは無縁に思
われる題材を、もう一度見直してみたいと思ったのが制作の動機と、作者はいっています。
台所はあまりにも現実すぎて詩を探すのに幾日もかかりました。
ぞうきんがけ、洗濯をする自分の姿をあらためて見直したり、その意味を思い巡らしたり、おとうふやさんの詩の時は、一粒の豆が豆腐になるまでを目に浮かべ、あらゆる角度から見たり考えたりしました。
詩はそのように、対象に近づいたり離れたり、様々な角度から見て、思うことが必要だと高田敏子は語ります。

●高見順の応援

1960年は安保闘争の年です。連日の新聞は、政治面も社会面も安保一色で埋め尽くされる、騒然とした時代でした。
高田敏子は、あえてそうした世相に触れた詩を作りませんでした。なぜなら、いつの時代も市井の中で世事と関わりなく、ひたむきに生き、働いた人たちがいたことで、人は生き継いでこられたのだとの思いを抱いていたからです。
それでも、当初は自分の力不足を痛感し辛く苦しい心境にありました。
その時、陰で励ましたのが高見順でした。
高見順は、当時、新聞社の社内モニターの職に就き、高田敏子が原稿を持っていく度に担当記者に〈そこだけぽっと明るい生活の灯〉と愛読していたのです。
それ以後、高見順が読んでくれているということが力となり、素材を探す時の目になっていったといいます。
後に、高田敏子は『月曜日の詩集』により、第1回武内俊子賞を受賞しています。


2006年
 1話