わが師わが心・・


                
第1話
             
(べに)の色

         
        先生とご一緒した最初で最後と
                 なった中国旅行(桂林)


●詩人の後ろ姿
私には忘れられない雨の夜があります。
1976年(昭和51)の5月中旬、富士山麓の御殿場で詩人・高田敏子主宰の詩誌グループ「野火の会」による詩のゼミナールが開かれました。
高田敏子は62歳。全国から50名近く参加者があり盛会の裡にゼミは終りました。
その夜、大学生の私が学生街の高田馬場駅前の道を御殿場からの帰途についていると、傘を傾け、大きな紙袋を片手に二つも提げた小柄な人影が、目の前をふらつくように歩いています。 
それが先生である高田敏子だとはすぐに気がつきませんでした。つい先ほどまで、多くの会員、著名な詩人たちに囲まれ、年齢を越えてまぶしいほど魅惑的に輝いていた人の、雨に濡れた日常の後姿がそこにありました。
細い背中に胸を突かれる思いで駆け寄り、ゼミの重い残部資料を手からほどくようにして、家までお供しました。大きな仕事を終えた後の疲れで、先生は道々無言でした。それでも家に着くと、
「お茶でも飲んでいく?」
先生は笑顔を向けます。
その夜は辞することにしました。頻繁に高田宅に通い始めて2年余。先生は社交辞令は言わない人だ、ということを、何度も目にしていたからです。
もし私が言葉に甘えれば先生は重い疲れを押して、一介の学生のためにお茶の仕度に取りかかったに違いありません。

●遣り場のないやさしさ

     
紅の色
                  高田 敏子

   やさしさとは
   ほうれん草の根元の
   あの紅の色のようなものだと
   ある詩人がいった

   その言葉をきいた日
   私はほうれん草の一束を求めて帰り
   根元の紅色をていねいに洗った

   二月の水は冷たい
   冷たい痛さに指をひたしながら
   私のやさしさは
   ひとりの時間のなかをさまよっていた
                      
詩集『あなたに』1974年


高田敏子宅では月例の勉強会があり、会の後は小さな宴が張られました。
ある夜の酒肴にほうれん草のおひたしが出ました。
「ほうれん草の根元の赤さ……みたいなやさしさを詩に書きたいな」
野火の会を支える詩人・安西均先生が、ほろ酔いかげんで歌うように呟きました。この場の様子を本人が後日、一篇の詩で再現しています。

   さうつぶやくと、高田敏子さんが言った。
  「そのお話、あたしに下さいね。」
   ぼくはすこし酔ひがまはったっ調子で、
   八百屋の親父みたいに、言葉を投売りした。
  「どうぞ、どうぞ、いくらでも。安くしと
   きまっさ」
                   
『安西均全詩集』「薄くれなゐの」抄

高田敏子は、買い取った言葉を〈やさしさとは/ほうれん草の根元の/あの紅の色のようなものだと/ある詩人がいった〉という章句で詩の中に甦らせています。
可憐で控えめなやさしさを、ほうれん草に見つけた喜びで、それこそおしむように、〈根元の紅色をていねいに洗った〉のでしょう。
しかし、ほうれん草を洗った日、このやさしさを振り向ける対象は身近にいませんでした。
この時期、子供達は全員自立し、ほぼ一人の暮らしだったのです。
やさしさを胸に湛えていても、誰にも注げずに〈ひとりの時間のなかをさまよっていた〉淋しさを、安西均は「遣(や)り場のないやさしさ」と呼び、作者の心を労っています。
〈二月の水は冷たい/冷たい痛さに指をひたしながら〉の言葉には、寒の水の痛みの上に心の痛みが重なり合っているのでしょう。
素材の美味に酔うことなく、教訓的にまとめることなく、最後を我が身の傷みで締めくくる手腕に、私は高田敏子の人柄の有りようを鮮やかに見る思いがします。

●帰らぬ時間
今でも私は、あの雨の夜の高田家の暗く閉じたドアを目の前に思い浮かべることができます。
私がお茶のご相伴を遠慮すると、
「そうね、もう遅いわね」
小声で横を向いた先生の目に、かすかに淋しさの影がよぎったように見えました。その記憶が「紅の色」の詩を読むたびに、未だに感傷的な想像をかき立てます。
ひょっとしたら、私のような学生でもいいから、先生はほっとしたひと時を共にしたいと思いながら、愛用の大ぶりの湯のみを手にしていたのかも知れないと。
先生はもういません。師たる人への尊敬と気おくれから、私は紅の色をしたやさしさを、一生、受け損ねてしまいました。
遣り場のないやさしさ・・その淋しさをうたった安西先生も、高田先生の死
後、6年を経て世を去りました。



2006年
 2話