わが師わが心・・


                
第4話
          
モダニズムからの出発


●術後の転機

         
雪花石膏(アラバスタ)

       雨雲のたらすにぶい圧力
       体臭に染まつた空気
       風は皮膚に止まって動かない

       一瞬 閃光に光る森
       その果てに
       私の視線は吸われる

       熟れた花弁にゆれる静脈
       ほてった指を組んでも流星は落ちない

       夜の爪に 体を裂き
       私のさぐる骨片
       わずかに
       青い霧をふく私の雪花石膏

       私はそれにすがる
       血管をからませ
       雄蘂のように乳房を咲かせる
       ざわめく髪をまとめて
       余分の風景を焼こう

                  
処女詩集『雪花石膏』1954年

1959(昭和34)、45歳の高田敏子は脊髄腫瘍の手術を受けています。
この病名が判明するまで十年余りも幾多の病院で検査を繰り返しました。
その間も病状は進み、やがて脊髄膜の癒着という病名で入院。脊髄に注射を施すかなり苦痛を伴う治療に耐える日々が始まりました。
同時期、高田敏子は前衛的な詩法をかかげるモダニズム(近代主義)派と呼ばれる詩人、長田恒雄のグループに所属しています。
「雪花石膏」とは、背中を固定する石膏ギプスを連想させる言葉です。
〈ほてった指を組んでも流星は落ちない〉、〈夜の爪に 体を裂き/私のさぐる骨片〉というモダニズム手法の章句には、重い病の苦渋が色濃く滲んでいます。
その中にあって、〈雄蘂のように乳房を咲かせる/ざわめく髪をまとめて〉に見られる官能表現は、知的で乾いた修辞を旨とするモダニズムの中にあって、なお女性的な潤いに満ちた情感が匂い立ちます。

手術成功後、心身共に快癒した詩人を祝福するように転機の仕事が訪れました。
朝日新聞家庭欄への詩の連載です。家庭欄の担当デスク・酒井章一氏はこう依頼しました。
「ほんとうの詩(?)をお書きになりたいでしょうが、当分はこのようなやさしい、いわゆる詩人の詩でないものを書いて下さい。多くのお母さんたちにもわかる詩を……」
難解なモダニズムを標榜する硬派の詩人が、主婦層を対象に誰にでもわかるやさしい詩を書くことになった。その背景を踏まえた依頼の言葉だったわけです。
平明でわかりやすい詩は反響を呼び、後にそれは常時会員800人を擁する詩誌『野火』に発展していく機縁となります。

●「本当ではない詩」がベストセラーに

一部の詩人からは「お母さん詩人」「台所詩人」という蔑称や、大衆におもねるものだ、というひどい中傷もありました。
しかし、台所詩人、お母さん詩人と呼びならされた活動の中で、詩の連載は三年に及び、難解な「現代詩」とは比較にならない読者の支持を得て、連載をまとめた詩集は3万部という、詩集としては当時、空前の売れ行きとなったのです。

「私たちの日常は、悲しいことや、苦しいこともずいぶん多い、それでもなお私たちは生きている。こうしたことに気づいた時、私たちの毎日を支え、あしたに歩ませてくれるものは何か?」と高田敏子は考えます。
「それはささやかでも生活の中に心の痛みを柔らげ、暖めるものがあるからではないか。
洗濯ものを干しあげて見る空の美しさ、夕ぐれの家の窓からもれる灯の優しさ。そして子どもたちが、お母さん、と呼びかけてくれる声のひびきのあたたかさ。私たちの毎日は、こうした小さなよろこびによって、あたためられ、支えられて生きつづけている」と気づきます。
日々の暮らしの何気ないものを詩のテーマとし、言葉を添えることで生きる励ましになる  新聞連載の過程で、新たな詩的開眼をとげたのでした。
最初、「ほんとうの詩ではない詩」といって依頼したデスクは、のちに謝まりました。
高田敏子も、自分も平凡な家庭の主婦なのに、そのことに気づかなかったのが恥ずかしい、と述懐しています。


2006年
 1話