高田敏子の言葉・・



                第 4 葉
           体験は必ず詩になる


詩を書くということは、なかなか大変な精神集中のいることで、生活的に忙しく、体力や神経をそちらに集中しているときは、なかなか書けないのではないかと思います。そしてそんなとき「もう詩は書けない」「ちっとも詩が書けなくなった」と悲しい思いにもなってしまうわけですが、そうあっさり詩をあきらめてしまってはもったいないと思います。詩にはならなくても、その時期は、体験を蓄積している時、と考えるべきなのでしょう。

一生懸命に生きた体験は、必ず心に残ります。それらが必ず詩になる時が訪れるでしょう。体験そのものがそのまま詩のテーマになる、ということもあれば、体験の中で深めた思い方や見方、生き方についての問いかけなどが、ある時思いがけない一行となって生まれ出る場合もあるでしょう。

詩はいつもいつも平均的に生産されるものではないと私は思います。書きはじめた当時はいくらでも書けても、それはいままで書かなかったということで、書きたい事柄がたまっていたからでしょう。それが詩としての価値があるかどうかもわからないで書いていた、ということもいえるでしょう。

はじめのそうした時期が一応すぎると、はたと筆が止まってしまう。それが当然であって、そこからはじめてほんとうの意味の詩に取り組む段階に入るのでしょう。
書けなくなったのは情感の枯渇、という思い方もありますが、その枯渇とは、自分の思い方や見方を、ある一定の円周の中で一応書きつくしてしまったということなのではないでしょうか。私たちの生活が、毎日ある一定の中でのくり返しで過ぎ、自分の思い方、見方も、その一定の中で習慣的にしかされていなかったとしたら、当然枯渇がやって来ます。しかしその枯渇を自分が感じたことは、自分がそこから一歩ふみ出したからそれに気づいた、ということなのでしょう。

書けなくなったことに絶望するより、その時期にこそ、次に新しく生まれてくるものへの期待をかけるべきだと思います。
詩は平均的に順を追って上達し、よい詩が書けてゆくものとはきめられません。

ある時期素晴らしい詩が出来ても、またしばらくは不調がつづく、ということもあるでしょう。それは、自分の情感や思想を盛り込むのに丁度よい器(対象)を得るか得ないかによるもので俳人や歌人は吟行会などをしますが、それは自分の足を使って対象とらえにでかけるのです。

詩人の場合は、日常の中に対象を見つける努力が多いのですが、それは短歌俳句と少し違って内面的な表現に比重が多くかかっているからでしょう。それにしても、精神をゆする何かの出合いが詩を生む大きな要素になることは確かです。

出合いは待つその気持で、書けないときもじっくり落ちつきながら、心と目を敏感にさせていましょう。それは詩を生むためだけではなく、生き方の新鮮さにもつながります。(
主宰詩誌「野火」第141号「今月の作品評」より


2006年
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