高田敏子の言葉・・
第 2 葉
詩を書く気持ちを捨てる
私が週一回の東京新聞家庭欄に連載している詩(1976年当時)に、八つ手を書いたものがあります。(略)
冬の庭
落葉を掃き寄せる
庭隅に
八つ手の花は咲いている
夜も
その花のところだけ
月夜のようにあかるくて
クサリにつながれた犬が
花を見上げて座っている
おやすみなさい
もう夜ふけ
犬と私に愛でられて
犬と私を明るくして
八つ手の花は咲いている
『野火』第61号
私は八つ手の花が大好きですが、ことに夜ふけ、ほんのりと明るいその花を見るのは私のなぐさめです。
この新聞連載の詩は16行以内に納めなければなりませんので、思いをこめすぎるとまとまりません。
まず、欲ばらないことを自分の心にいいきかせ、詩を書こうという気持も捨てる努力をします。
詩を書くのではなく、言葉をつづるのだと自分の心に何度もいいきかせるのです。
考えてみると、この短い詩に限らず、私はいつも、「詩を書く」という気持ちを捨てる努力からはじめなければなりません。
「詩を書く」という思いにとらわれている間は、こわくてとても筆を下ろせないのです。
ただことば、私の中から生まれることばをじっと待って、一行のことばが出たら、そのことばを元にして思いをひろげてゆきます。
どんなことになるか、どんな形でまとまるかもわからないまま思いを追ってゆくのです。
思いとことばが重ならなかったり、思いが止まったまま何んの発展もなくしぼんでしまうこともあります。
でも辛抱強く、思いがもう一度新しい方向を見つけて、息を吹きかえしてくれるのを待つのです。そして、その待っている間中、心にいい聞かせます。
「ステキなことを思わなくてもいいの、ほんのちょっとしたことに気づいてくれれば」と。
私の中の、何か、普段は気づかずに持っている自分の中の何かに気づくことが、私にとっての「詩」ということなのでしょう。
読む人にとって、それが詩であるかどうかというより、自分が、ほんのちょっとしたことにしても、新しく気づいたという実感を持つこと。日常や過ぎた月日の中から、新しく気づくことを引き出すところに、文字になる以前の「詩」があるのでしょう。