高田敏子の言葉・・



                第 3 葉
         詩の保存器 感動の保存器


井上靖氏は、詩集『北国』の後がきに次のように書いています。

「私はこんど改めてノートを読み返してみて、自分の作品が詩というより、詩を逃げないように閉じ込めてある小さな箱のような気がした。これらの文章を書かなかったら、とうにこれらの詩は、私の手許から飛び去って行方も知らなくなっていたに違いない。しかし、こうしたものを書いておいたお蔭で、一篇ずつ読んで行くと、かつて私を訪れた詩の一つ一つが  ふと私の心にひらめいた影のようなものや、私が自分で外界の事象の中に発見した小さな秘密の意
味が、どこへも逃げ出さないで、言葉の漆喰塗りの箱の中の隅の方に、昔のままで閉じ込められてあるのを感じた。
そういう意味では、私にとっては、これらの文章は、詩というより、非常に便利調法な詩の保存器であり、多少面倒臭い操作を施した詩の覚え書きである。
覚え書きなら、二三行に書きつけておいてもいいわけだが、私はその何倍かの言葉を使って、詩の覚え書きを、比較的堅固頑丈なものにしたわけであった」

かなり長文の引用になってしまいましたが「詩の保存器」といわれることをぜひ参考にしていただきたいと思います。(引用文の中で一つ注意していただきたいことは「詩」という言葉が、詩の素の感動、発見を指す場合と作品としての詩を指す場合に使われていることで、そこを読み分けなければなりません。
多分おわかりと思いますが)
「詩の保存器」とは「感動(発見)の保存器ということです。感動が逃げないように、鮮やかによみがえるように、堅固頑丈にするとは、言葉をしっかりと緻密ていねいに組立てて書くという意味です。
野火の例会
(注・主宰詩誌の月例合評会)で先生方の作品評が、言葉の不備についてを指すことが多いのは、この保存器をしっかりさせることにあてはまります。内容はどんなによくても、言葉の組立てがあやふやだと作者の感動は伝わりません。
では、その言葉の組立法はどうすればよいか、それは言葉を学ぶ以外にありません。辞書で学び、人の書いた文章よく読んで、学ぶ興味を持つことから、言葉を豊かに持つことができます。でもまた、言葉をたくさん知ったからといって、それをならべ使うだけでは駄目で、多くの言葉の中から、内容にふさわしい言葉を選ぶことをしなければなりません。作品の持ち味とは、その言葉できまり、それがまた、その言葉を選び出した作者の人柄に通じます。
言葉は少なく内容をゆたかに、が、詩の特徴でもありますから、余韻を生かす使い方なども工夫することでしょう。
そうした書く技術となると、その習得にはある年月がかかるといえますけれど、言葉とは、私達の日常の中でいつも使われ、誰もが使い持っているものですから、上手な組立てとはまた別に、その人らしい言葉使いの魅力もあって、詩の自由さ、たのしさもそこにあるのでしょう。自分を無邪気にこめる天心らんまんさも必要ですね。
詩を書く心には、いろいろな要素があって、それは結局生きてゆくのと同じの心の柔軟性を持つことではないでしょうか。


2006年
 1葉