心の自分史をつづる・・
点 滴
松岡 京子
点滴を刺した跡が、
退院して一年経って、腕から消えた。
二ヶ月の入院の間、
一週間おきに、
左右の腕に刺し替えていた、点滴の太い針は、
青く浮かぶ血管の上に、小さな丸い空白を、残した。
退院して、家に帰った。
やわらかなベッド、
誰も、見回りにこない、静かな夜、
次に、点滴の針を、どこに刺してもらえばいいのかと、
穴だらけの腕を見て、心配しなくていいのだ。
ほっとしたのは、束の間だった。
なんて静かなんだろう。
アパートの部屋に、一人でいると、
誰にも気づかれずに、消えてしまいそうだ。
夕日に黄色く染まった壁が迫ってくる。
冷蔵庫は伸び上がり、
突き出た流し台では、食器が盛り上がり、
食器棚は壁からせり出して、襲いかかってくる。
私は、部屋の底に沈んでしまう。
何事もなく、私は消えることもなく、
一年が経った。
時々、腕を眺めては、探していた、
小さな傷だけが、消えてしまった。
2007年広島市短詩型文芸大会・市長賞
◇ ◆ ◇
作者から
「点滴」は、入院の体験をもとに、書いた作品です。
妊娠7ケ月目に、切迫早産(胎内で、充分に育つ前に、早く、子供が生まれそうな兆候)になり、2ケ月間、病院で過ごしました。
妊娠10ケ月目に、無事に退院することができましたが、初めての妊娠だったこともあり、出産するまでの、1ケ月間、とても不安でした。2ケ月の入院生活は、不安と苦痛ばかりだったはずなのに、アパートに一人でいるよりは、安心だった気さえしてきました。
私と同じ体験をした人は、あまりいないかもしれませんが、病気で、長い間、入院したことがあれば、同じことを感じられるかもしれません。孤独感、不安が、住み慣れたはずの、部屋の風景まで変えてしまいます。逃げる場所はどこにもなく、違和感のある、「日常」を、暮らしていくしかありません。
心に、傷を残した出来事も、いつかは過去になり、薄れていきます。でも、消し去ることは、なかなかできません。
今では、息子も1歳を過ぎ、元気に育ってくれています。幼い子供がいると、詩の勉強を続けることは困難です。
石川先生のご好意で、時には息子を同伴して、ご自宅での勉強会に出席させていただき、今回の嬉しい受賞となりました。
石川先生、奥様、本当にありがとうございました。