詩は魂の養い・・
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葡萄に種子があるように
高見 順 葡萄に種子があるように 私の胸に悲しみがある 青い葡萄が 酒に成るように 私の胸の悲しみよ 喜びに成れ 詩集『樹木派』1950年 作者に「詩への感謝」との一文があります。 「バターとかチーズとか、そういう栄養食料は病める私の肉体を養ってくれた。 そして、病める肉体とともに、苦しみ悩んでいる私の心は、詩を書くことによって、慰められたというのでは、ぴったり来ない。やはり、それは養われたというのが実感であった」 詩人・高田敏子はこの一節に触れて、 「生きてゆく上で必要なのは、衣食住だけではなくて、魂へのことば、生へのよろこびをもつことが必要です。肉体を生かしてゆくために、日々の食事が必要なように魂にもよろこびを与え続けてゆかなければならないのでしょう。三度の食事のために、材料を求め、料理するように、魂へのご馳走も、材料を探し、自分で作り出すことが必要で、詩的思考とは、その役目を果たしてくれるものと思うのです」(詩詩『詩人会議』1982年4月号所収「私のノートに書かれた詩から 詩が魂の養いである、と思いを深めて語っています。 高田敏子は、昭和35年(1960)から朝日新聞家庭欄に毎週一回、詩を連載する仕事を始めました。この新企画は主婦層に爆発的な好評を博して三年余り続き、後に『月曜日の詩集』にまとめられています。 昭和35年は安保闘争の年です。 連日の新聞は、政治面も社会面も安保一色で埋め尽くされる、騒然とした時代でした。 高田敏子は、あえてそうした世相に触れた詩を作りませんでした。なぜなら、いつの時代も市井の中で世事と関わりなく、ひたむきに生き、働いた人たちがいたことで、人は生き継いでこられたのだとの思いを抱いていたからです。 それでも、当初は自分の力不足を痛感し辛く苦しい心境にありました。その時、陰で励ましたのが高見順でした。 高見順は、当時、新聞社の社内モニターの職に就き、高田敏子が原稿を持っていく度に担当記者に〈そこだけぽっと明るい生活の灯〉と愛読していたのです。 以後、高見順が読んでくれているということが力となり、素材を探す時の目になっていったといいます。 ●詩への感謝(抄) 高見 順 バターとかチーズとか、そういう栄養食料は病める私の肉体を養ってくれた。そして、病める肉体とともに、苦しみ悩んでる私の心は、詩を書くことによって、 詩を書くことが、どうして生命の養いに成ったのか。いくら短い詩だといっても、それはものを書くことに違いなく、エネルギーを消耗させる点で厳密に言ったら、よくないことだろう。(中略) しかし、病状が一応おさまって、療養生活に入った時、 私はその時、詩に縋(すが)ったのだった。人によっては和歌に俳句に縋るだろう。或いはまた( 便所に、自分で初めて行けたときのこと、 生きている。それは、生きられたということだった。死なないで、生きられた。いのちの有難さが、じーんと心にしみた。 私は妻に言って、軽い手帳を買ってこさせ、それに、寝ながら鉛筆で、こう書いた。 新緑 そのとき 窓から 庭を見て いきもののいのちに いきなり触れた これが詩というものかどうか、詩に成っているかどうか、 いい詩を書こうとか、うまい詩を書こうとか、そういうことは考えない。そういうことで、エネルギーを消耗させたくない。うまい詩、いい詩、詩に成っている詩は、 病気が落ち着いてからゆっくり書けばいい。 今は、書きたいものを書く。 高見順編『眠られぬ夜のために』四季社 1950年 ●高見順のプロフィールは こちら |
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