高見順の墓
北鎌倉・東慶寺

墓前には花が絶えない。愛煙家の個人に何本もの煙草が供えられている
北鎌倉駅近くの東慶寺は季節の花々を楽しめる古刹として女性に人気が高く、俗に縁切寺、駆込み寺として知られています。
東京在住の頃、詩の教室の皆さんと訪れた晩秋の境内。茅葺きの門をくぐって細い敷石道を歩むと、目にとまるのが紫式部。名の通り、濃紫
(こむらさき)の小粒な実が手のひらに転がしたいほど可憐です。
その根方には、十二単衣の厚い葉群が地面を覆っています。紫式部と十二単衣の取り合わせの妙は「花の源氏物語」の世界を演出しているかのよう。奥に進むに連れ、寺域は扇型に拡がり懐ろが深いです。西田幾多郎、和辻哲郎、小林秀雄、田村俊子など多くの著名人が眠ります。
高見順の墓は、墓所の坂を上り切った最奥の左手、墓地を一望する高台に別格の扱いで置かれています。
高見順が精力的に詩作に打ち込んだのは戦後でした。
『樹木派』1950年、『わが埋葬』1963年、『死の淵より』1964年(野間宏文芸賞受賞)の優れた詩業があります。
詩想は死病に向き合う闘病の日々から生まれました。  癌でした。


      
庭で        高見 順

    一 草の実

    小さな祈りが葉のかげで実っている

    二 祈り

    それは宝石のように小さな函
(はこ)にしまえる
     小さな心にもしまえる

    三 カエデの赤い芽

    空をめざす小さな赤い手の群
(むれ)  祈りと知らない
     祈りの姿は美しい


高見順の墓の脇に、鳥の巣箱のような趣きの、小さな文箱が添えられ、中にノートが収められていました。墓に詣でた幾多の人がノートに感想を綴り、それを纏めた『高見順とつれづれ帖』(1980年刊)が、秋子夫人の手で刊行されています。

 

  
高見 順 小説家・詩人。福井県三国町生。明治40・2・18〜昭和40・
   8・17(1907〜65)。本名・高間芳雄(よしお)。
   一時期、詩作から遠ざかるが、1947年、池田克己と「日本未来派」を創刊、
   詩作を再開。昭和25(1950)年、結核療養中の詩篇からなる処女詩集『樹木派』
   刊。昭和38(1963)年、食道癌で入院。
   同年自選詩集『わが埋葬』刊。昭和39年、詩集『死の淵より』で野間文芸賞。
   特筆すべきは日本近代文学館(東京・駒場)を創設。明治以後の近代日本文学の
   資料収集・保存という業績がある。
   詩人・阪本越郎は異母兄弟、作家・永井荷風は義理の従兄弟に当たる。

  ◆
紫式部 初夏、葉のつけ根に薄紫の小花が咲く。中秋に丸い実を結び、熟すと
   赤紫色に輝く。実の美しさを紫式部になぞらえて命名された。美紫(みむらさ
   き)の別称がある。
  ◆
十二単衣 多年草。春、数本の茎が立って白毛に覆われる。花は茎を囲むよう
   に段になって開花。その重なりを宮中の女官が着た、十二単衣に見立てて名が
   ついた。