みぞれの降る心・・
お盆を過ぎて、今年も蝉のなきがらがマンションの通路に転がるようになりました。建物の壁に張りついて、狂ったように最期の声を震わせている仲間もいます。せめて、死ぬ時は土の上に帰ってほしいと思うのですが、都会に生きる蝉が、コンクリートの上に木屑のように転がっているのは、ひとしお哀れを誘われます。
そんな折、心をよぎる詩  

              


        秋が くる というのか
        なにものとも しれぬけれど
        すこしずつ そして わずかにいろづいてゆく
        わたしのこころが
        それよりも もっとひろいもののなかへ くずれてゆくのか

蝉のように短い一生だった八木重吉の遺稿の一篇、「秋」には詩人の透明な寂寥感がただよっています。
「日本詩人全集」(新潮社・絶版)の一巻『中勘助 八木重吉 田中冬二』にある草野心平の「八木重吉・人と作品」は、宿命的とも言うべき詩人の孤独な風貌を活写しています。

「私が八木重吉に初めて会ったのは1925年(大正14年)の冬、福島の郷里に行っていて、再び上京の途次千葉県柏の寓居を訪ねたときである。当時彼は東葛飾中学校の英語の教諭だった。中学校は建って間もないような新しさで、その学校に近く新築の平屋二軒並んでいたが、そのうちの一軒に八木重吉とその家族は住んでいた。
八木重吉が詩人として最も充実していたのはこの柏時代で、妻とみ子、長女桃子、長男陽二との家庭生活も楽しかったにちがいない。にも拘らず重吉の顔はいかにもさびしそうだった。心のなかには霙
(みぞれ)でもふってるような、世にも哀しい顔つきだった。そのさびしさ、かなしさはどうやら天性的なもので、それから数ヶ月後に発病したことの予感によるものではなかった。肉体的虚弱さもいくぶんは影響していたかもしれないが、本質的には矢張り関係のないものだった。

    私は、友がなくては耐えられぬのです。しかし、私にはありません。
    この貧しい詩を、これを読んでくださる方への胸へ捧げます。そして、
    私を、あなたの友にしてください。

これは重吉が生前、ただ1冊だけ出した詩集『秋の瞳』に記された序文です。
生前、無名だった彼は真の詩友を得ることもなく、また、病いのために友を得る時間も許されぬまま、彼の好きな秋の季節に消えていきました。
草野心平は、孤独が重吉の命運だったといいます。
「その孤独をあったかく包んでいたのは彼の家族だった。その家族を彼がまたあったかく包んでいた。あったかい円い鞠のようにポツンと八木重吉とその家族は平野のなかに住んでいた。」