第2部 母恋い

第6話 泰子と中也と秀雄

         
     長谷川泰子、広島女学校(現広島女学院)    昭和6(1931)年、小林秀雄(右)29歳と
     実科卒業アルバム、17歳            草野貞之(出版者)



         京都ではひとりぼっちで寂しいから
         公園にいって遊ぶんだよ  
〈中也の言〉

郷里を追放同然に離れた中也は、身寄りのいない京都の孤独な生活に耐え切れず、友人、小学校担任に寂しい手紙を出しています。家族は寂しい思いをさせると、とかく男は酒とか女とかに身を持ち崩すものと心配していました。それがまさに現実化します。

「お母さん、ぼくは学校の先生の奥さんに、とってもかわいがられるんだよ。それで、赤い毛糸のシャツをお土産にもっていってあげたいから、買ってきてください」
これは母に嘘を言って恋人に服をプレゼントしようとした中也の手紙の一節です。

恋人の名は、長谷川泰子。女優の卵で、マキノプロダクションの大部屋女優。
中也と同じ広島女学院付属幼稚園に入園していた奇遇がありました。中也と知り合った頃は、「表現座」という劇団の一員でした。
中也の書く斬新な詩に泰子は感動し、二人は急接近します。その後、表現座がつぶれ、泰子が生活苦にあえいでいると、中也が声をかけます。
「僕のところへ来たら?」
泰子は中也より3歳年上で、この時はまだ、中也を子供のように思っていました。
大正13年(1924)4月、17歳の中也は20歳の泰子と同棲することになります。

大正14年(1925)3月、中也に多大な影響を与えた詩人・富永太郎が病気療養のため郷里である東京に戻ると、中也と泰子も後を追うように上京します。
東京では運命的な出逢いが待ち構えていました。後の文芸評論家・小林秀雄との交遊です。
当時、小林秀雄は東京帝国大学の仏文科の学生で、中也と意気投合し、中也の詩の最大の理解者となりました。


                ◇◆◇


                
無題

                  
中原 中也


       こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
       私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
       酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
       目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
       私は私のけがらわしさを歎いてゐる、そして
       正体もなく、今茲
(ここ)に告白をする、恥もなく、
       品位もなく、かといって正直さもなく
       私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
       人の気持をみようとするやうなことはつひになく、
       こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
       私は頑
(かたくな)なで、子供のやうに我儘だつた!
       目が覚めて、宿酔
(ふつかよい)の厭(いと)ふべき頭の中で、
       戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
       私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
       そしてもう、私はなんのことだか分からなく悲しく、
       今朝はもはや私がくだらない奴だと、自ら信ずる!

                        
詩集『山羊の歌』1934年(昭9)

中也は泰子のために数多くの恋愛詩を綴っています。泰子の前で中也が自作を読むと、泰子は涙を流して聴き入っていたといいます。
愛する人の前で詩を読み、相手が涙を流すほど感動して聴いてくれる  詩人としてこれほどの至福はないでしょう。
作品「無題」からは、恋人の前で子供のように裸の心をさらす、真っ正直な中也の魂が伝わってきます。男というものは、プライドが邪魔をして中々、ありのままの姿を見せないものです。ところが、中也はこれでもか、これでもか、と言わんばかりに駄目な自分を責めています。そして、こんなくだらない自分を、恋人のやさしさが受け止め、包んでほしいと哀願しているかのようです。
自分の弱さを認め、ありのままの自分をさらけ出す。それは中也が現実を受け入れられる強さを持っていたことを物語るものでしょう。
泰子との蜜月は、二人の中が破綻するまで、知り合って2年半続くことになります。


         
記事中のエピソードは、中原フク・述、村上護・編『私の上に降る雪は』
            より引用。冒頭の写真は『新潮日本文学アルバム 中原中也』より転載。