第2部 母恋い

第5話 胆やき息子

              
            昭和48(1973)年、散歩中の中原フク、94歳


        
金送れ 〈中也の言〉

        
(きも)やき息子じゃったですよ 〈母の言〉

中也の青春は京都からスタートします。それは母にとって生涯仕送りの毎日が始まることでした。中也は生涯、定職につくことはありませんでした。結婚後も、親の経済的援助を受けていたのです。死ぬまで、親をハラハラ、ドキドキ、ヤキモキさせた〈胆〉をあぶるような息子でした。

仕送りは、始めは60円。帰省する度に痩せているので、栄養をつけさせたくて、あとでは親馬鹿で80円を送金。大学でのサラリーマンの月給が50〜60円の時代でした。
現在の額に換算すると、40万円近い仕送りです。

「新編中原中也全集」の資料篇で、中也から母に送った手紙が2通掲載されています。
文面はいずれも、金の無心。中也の手紙と葉書はずいぶんありましたが、中也が死んだ時、母フクが大半を焼きました。お金の催促状ばかりなので残しておくことはないと思ったからです。

母フクは中也の弟達が学校を卒業して一人前になるまでは貯金を使い果たすことはできませんでした。中也はそんなことに頓着はありません。月々の仕送りの他、「本を買うから金を送れ」、「空気銃を買ったから、金を送れ」と次々に催促。そして「空気銃に袋をかけておかんといけないから、袋を買うお金を送ってください」とまで言ってきたそうです。

   中也君は学校はやめておるけど、将来有望な人だから、
   学費と生活費だけは送っておあげなさい 
〈中也?の言〉

立命館中学4年修了を確認後、中也は一年間東京で予備校に通う許可を得て上京します。
上京して大学を5校受験しましたが不合格。落ちる度に家に電報を打って来ます。
「まあ、みっともない。ダメなら黙って、手紙でも書きゃあええのに。電報まで打たんでもええのに」と人目を気にする父は気をもんでいました。

大正15年(1926,19歳)4月、 最期にやっと日大予科
(下記、注を参照)に合格。
その後、フランス語を習得するため、アテネフランセへ通学します。中也は、京都で詩人・富永太郎からフランス文学の教養とフランス近代詩人を学びます。彼の影響でランボーなどの詩人に傾倒しました。

9月、無断で日大予科を退学。なおも日大へ通っていると嘘をつき、仕送りを受けていました。退学は、やがて母フクの知るところとなり、1カ月ぐらい仕送りはストップされましたが、中也が〈餓
(かつ)え〉てしまうので続けて仕送りしました。
仕送りが途絶えた頃、中也の知人を名乗る人物から、母フクに手紙が届きます。
将来有望な中也のために、仕送りを再開してほしいという嘆願状でした。筆跡を見ると中也の字に酷似していました。中也のニセ手紙だと母は思いましたが、知らない顔をしていました。
日大に通っていない嘘が判明したことを中也は『詩的履歴書』に綴っています。
「然しこっちは寧ろウソが明白にされたので過去三ケ年半の可なり辛い自責感を去る」と母を騙すことに心を痛めていた姿が浮かびます。
しかし、母にとっては〈胆やき息子〉には違いなかったでしょう。

中也は他にも母に嘘をついています。立命館中学在学中、女優の卵・長谷川泰子と同棲していた頃、「お母さん、ぼくは学校の先生の奥さんに、とってもかわいがられるんだよ。それで、赤い毛糸のシャツをお土産にもっていってあげたいから、買ってきてください」と、泰子のために服を買わせています。

日大を退学した頃、中也は毎日歩き回るのを日課としていました。
「大正12年より昭和8年10月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、
それより夜の12時頃迄あるくなり」
大正12年は立命館中学入学時、昭和8年は結婚直前。独身時代、文学修行時代に当たります。

散歩は中也にとって、軽い運動や気晴らしという意味ではなく、〈労働としての散歩〉でした。つまり、歩行することによって詩作する人であったのです。
「月が出てたりすると僕はいつまでも歩いてゐたい。実にゆっくり、何時までも歩いてゐたいよう!」と語っています。
作品『湖上』〈月がポッカリ出ましたら、/船を浮かべて出掛けませう。/波はヒタヒタ打つでせう。/風も少しはあるでせう。〉は、このような散歩から生まれたと思われます。

上京した中也は、著名な文学者を片端から訪問します。それは先達から教えを請うというものではなく、道場破りに近い、文学的果たし合いのようになものでした。また、文学を志している友がほしくて毎日外出していました。      
(泰子談『ゆきてかえらぬ』)

中也最大の仕送り額は、300円。
昭和7年(1932年,25歳)6月に処女詩集『山羊の歌』の予約募集をしますが、予約者は10名ほどなく出版は暗礁に乗り上げます。予約出版を断念した中也は、同年8月帰省して印刷費用300円を母から引き出しました。
それでも豪華本を目指したため印刷した所で資金がつきます。年末、版元探しが難航する中で、中也は神経衰弱が極限に達し、強迫観念に襲われて幻聴も伴うようになりました。

詩人とは、人一倍感受性が鋭い者です。感じやすいということは、誰よりも傷つきやすいということでもあるでしょう。
この危機を救ったのが、母フクが見合いを勧めた上野孝子との結婚でした。精神の平衡を回復した中也は、詩作の高揚期を迎え、昭和9年(1934,27歳)11月、文圃堂から生前唯一の詩集『山羊の歌』がついに刊行されました。


  
(注)大学予科:戦後の学制改革まで存続した制度。現在の高等学校3年と大学1,2年次に相当する。
     現大学の教養学部的性格を持つ。また、特定の旧制大学へ進学するために、旧制中学校卒業後
     に入学する課程。中也は立命館中学履修後に、大学進学を目指して日大予科に入学した。

        
記事中のエピソードは、中原フク・述、村上護・編『私の上に降る雪は』
           長谷川泰子/村上護・編『中原中也との愛 ゆきてかえらぬ』より引用。
           冒頭の写真は『私の上に降る雪は』より転載。