第1部 父への反抗

第4話 父の死

        
        立命館中学3年生の中也。山口中学時代の家庭教師・村重正夫と。


       中学校を卒業したから、東京へやって下さい 〈中也の言〉

立命館中学の学業を終え、京都から戻ってきた中也は母に懇願します。「お母さん、東京へやるようにお父さんに頼んで下さい」と何度も泣くように言い、最終的に父が認めました。こうして中也の青春時代が始まるのです。

       
月に一回ずつ、とにかく帰ってきます 〈中也の言〉

中也21歳の春、父が胃癌となり余命が短いと母に聞かされます。上記の言葉通り、東京から帰省し、時に詩を送りました。その詩を父は病床で読み、ポロポロと涙を流していたことがあったといいます。

              
生ひ立ちの歌

             
幼年時
           私の上に降る雪は
           真綿のやうでありました

             
少年時
           私の上に降る雪は
           霙
(みぞれ)のやうでありました

             
十七  十九
           私の上に降る雪は
           霰
(あられ)のやうに散りました

             
二十  二十二
           私の上に降る雪は
           雹
(ひょう)であるかと思はれた

             
二十三
           私の上に降る雪は
           ひどい吹雪とみえました

             
二十四
           私の上に降る雪は
           いとしめやかになりました……


作者の身に降るかかる雪は、年齢と共に次第に厳しさをましていきます。生活環境の厳しさを、エスカレートする雪の激しさで表現する独自の比喩の手法を使っています。
私はこれまで、この作品を中也の心象風景を語るものとして理解してきましたが、中也と父の関係を調べるにつれて、考えが変わってきました。
これは、中也が父に代わって、父の心のありようを謳っているのではないかと。
24歳で、今まで激しかった雪が不意にやさしくなる。それは、中也に人生のすべてを託していた父の断念
(中也の上京の容認)、諦めの静けさではないでしょうか。

父の葬式に中也は出席しませんでした。母フクが参列させなかったからです。
中也は上京後、夏と冬には帰省していました。ただ、そのいでたちは、心酔していたフランスの近代詩人・アルチュール・ランボーを真似て、お釜帽に長髪で黒マントという奇異なものでした。母は、中原家の恥になるといって人目に触れるのを恐れ、帰郷を許さなかったのです。
中也の風変わりなファッションは、「中原へ行くと、坊ちゃんのようだけど、お嬢さんのような髪を長うした人がおいででしたが、あれはどなたでございましたか」と近所の者が母フクの実家まで問い合わせに行ったほどでした。

中也は15歳で、詩を書くことを一生の仕事にすると決めました。父子の運命はそこで決したといっていいでしょう。
子煩悩で、元旦でも往診に行くほどの誠実な人柄。跡取りの中也を一人前にするべく常規を越すほど熱心な教育家。死の間際には、自分の脈を取りながら息を引き取ったといいます。医師としての生涯をまっとうした立派な最期でした。

父謙助の典型的な明治人の男気質を思うと、父と中也は写真とネガの組み合わせのような表裏一体の関係にあることがわかるのです。父への反抗は、明治という時代への反抗ではなかったか、と。

明治時代とは、旧時代の道徳と新時代の思想の不整合に悩む青年達が生きた時代でした。
個人と国家の目的が急速に乖離
(かいり)し始めた明治末期。新旧の時代の衝突が、中原家の父子の上に典型的に現われたと思われるのです。


          
記事中のエピソードは、中原呉郎『三代の歌』、中原思郎
            『長兄』、中原呉郎『海の旅路』より引用。中也の習字の画
             像は、『別冊太陽 中原中也』(平凡社)より転載。