第1部 父への反抗

第3話 落第万歳

           教育方針をあやまった 〈父の言〉
           
方針たあ何だ。方針もない癖に 〈中也の言〉

中也の成績急落を恐れた父謙助は、山口高校生を家庭教師に雇いますが、火に油。
この家庭教師が文科の学生だったために、中也は彼からさらに多くの文学の知識を吸収していきます。
そしてついに、歴史の答案を白紙で提出して落第
(大正12年/1923.3/16歳)したのでした。落第した中也は、勉強部屋に友人を招き、答案用紙を破いて「万歳」を唱えたといいいます。
落第は計画的でした。落第でもしない限り、自分は厳しい両親の監視の目から逃れることはできないとまで、中也は精神的に追いつめられていたのです。

落第の知らせに、家族は信じられない父謙介の姿を見ました。
  父はショックのあまり背広姿のままコタツに潜り込み、布団を頭から被り顔を隠しました。
中也の中学落第の屈辱に父謙助は耐えられず、煙管で中也の身体を打ちました。三月の厳寒の夜、納屋に監禁。それでも中也は強情に学校に行かないと言い張りました。
この時の、「教育方針をあやまった」という父の言葉に、中也は心の中で「方針たあ何だ。方針もない癖に」と思いました。父はその後、弟達には一切干渉しない放任主義に一変しました。弟達は幼稚園にもやられなかったのです。

                  ◆◇◆

        
         
湯田温泉駅ホーム。落第した中也が京都の中学校に転校する日、
           見送りは祖母一人だけだった。


       
生まれて初めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり 〈中也の言〉

山口県立中学を落第した時、親は一歩も出られなくなりました。名門の長男が不出来だと人様に会わす顔がないと。中学落第で、中也は上京することを希望しましたが、元家庭教師の京大生と父謙介が相談して、立命館中学への転校が決まりました。
家を出たいという中也の思惑どおり、島流し同然に中也は京都の立命館中学にこっそり送られました。しかし、中也がどんなに淋しがっても親は無視しました。
「その落第と申しますのも、父が余りやかましやでございましたので、私と致しましては、むしろ落第をきっかけに、他郷の学校へ転校致すべくわざわざ答案を粗略に致しましたわけでございます。何しろ小学に這入りましてからは、這入るとまづ、一番にならなければ家を出すとお父さんが仰言ったと母に聞かせられますし、学校に這入りましてからの家庭生活は、実に蟻地獄のやうでございました」
(「千葉寺雑記」:昭和12年療養所での回想記)

                  ◆◇◆

「飛び立つ思い」は私にも身に覚えがあります。徹底的に親に逆らった青春を過ごした、という中也と似通った経験をした者として、私の半生を振り返ってみます。

コンピューター技師を目指していた地元での学生時代、大学で再会した友人の影響で、文学に目覚め、演劇、音楽、同人誌の創刊などに没頭しました。当然、学業成績は、みるみるうちに下降。ついに、文学部への転学を考え、両親に告白しましたが、失望と怒りを買っただけでした。
文系から理系へ進路変更する学生は珍しくありませんが、私のように逆をいく、常識を覆すような行動は両親には理解不能だったでしょう。私の変身は地元の国立大学への入学を私より喜んだ親の期待を裏切る行為でした。
大学を休学し、再度、予備校に入学。親も根負けして、志望校に不合格となった時は、即、大学へ復学するとの念書を書かされて、やっと受験勉強が許されました。

休学中、昼は予備校に通い、夜はなおも反対する両親と口論を重ねることが私の日課と
なりました。2年後の、志望校に合格した春、父は「あの子は本当に勉強が好きなのだろう」と、無理に自分を得心させた、諦めの言葉を母に呟いて私のわがままを許してくれたそうです。

大学の入学手続きのため上京する際、父はどうしても下宿の家主に挨拶したいと言いました。この父の申し出を断る資格は私にはありませんでした。
下宿は新宿駅から快速で40分ほどの私鉄沿線にありました。当座をしのげる雑貨を近くの商店街で父と共に買い求め、家具一つない陽が射すだけのがらんとした四畳半の部屋で、親子が楽しげに食器棚を組み立てる姿は、昨日までの父子の葛藤を思うとおかしな光景でした。

私は苛立っていました。下宿先のこの部屋から一刻も早く父が立ち去ってくれるのをしびれをきらして待っていました。長年憧れた東京での新たな暮らしが始まろうとしていました。私はすぐにでも一人になりたかったのです。

いよいよ父が東京を離れる日、一人息子を初めて大都会に残す父の憂慮をよそに、私は
これでやっと一人になれると、喜びで胸が一杯でした。
下り新幹線の発車ベルが鳴りました。が、電車が動き出すまでの数十秒が実に長く感じられました。その間のまのぬけた時間、私は父と別れの目顔を交わすのが照れくさく、冷淡にあらぬ彼方を見遣っていました。

電車がすべるように遠ざかり始めます。こちら向きに腰掛けた父が、私が手を振ると応じるようにこっくりと首を揺らしました。念願通り、やっと一人になれた。そう思うと同時に、
ああ、これで本当に自分は一人きりになったのだ。自分はそのために何と多くの時間、費用、親の苦労を犠牲にしてしまったのだ、という悔いが一気に噴き上がり、涙があふれてきたのです。
目頭を手でぬぐいながら、人の目を避けるようにホームの階段を下りました。

                  ◆◇◆

息子というものは、父と戦争をしないと、精神的に自立は出来ないのかも知れません。
中也は父への反抗を通して、「詩人・中原中也」という強烈な自我を培っていったといえるかも知れません。
私が上京した時、中也と同じように他郷ではひとりの友人も身寄りもいませんでした。
そんな大都会での孤立無援な日々に何とか耐えられたのも、父との修羅の日々があったおかげだったのでしょう。
それでも、恩師高田敏子を知るまでの1年半あまりの期間、多くの犠牲を払って入学した大学を退学をしようかと思うほど、精神的に追いつめられていたのです。私は恩師のおかげで自分の進路を見つけ、今日に至っています。


          記事中のエピソードは、中原呉郎『三代の歌』、中原思郎
            『長兄』、中原呉郎『海の旅路』より引用。中也の習字の画
             像は、『別冊太陽 中原中也』(平凡社)より転載。