第1部 父への反抗

第2話 習字、恐るべし

                  また兎か 〈弟たちの言〉

父謙助は美食家で大食漢。夏の刺身は必ず氷の上に乗せなければなりません。
それだけでなく、ビリビリと振動していなければならなかったのです。西洋皿一杯の刺身、ドンブリ一杯の酢蛸。付け合わせのチシャの葉は、前方をさえぎるほど山盛り。酒量はたいしたことはありませんでしたが、銘酒の蔵本から取り寄せた最上級のものでないと承知しませんでした。徳利・酒盃も曰く付きのもの。箸箱は、貝をちりばめた漆塗りの、硯箱に近い大きさ。箸箱と揃いの箸はずしりと重く、食卓に置くと信じられないことが起こりました。
  ゴロリと音をたてたのです。

謙助の夕食は、家族とは別室で朱塗りの食卓を持ち込み、多量、多様な御馳走を配置して始まりました。この舞台装置の中に大あぐらをかき、一日の中で最も重大な行事をするといった顔をして、長い長い食事をしました。

しかし、これは中也にとって、悪魔の儀式の始まりに過ぎませんでした。
  食事の途中、中也は必ず呼び出しを受けるのです。
それは、父亡き後は、中也がこの食卓に座るのであるといった意味がありました。酒が回ると、山海の珍味が逃げ出すような愚痴、嫌み、毒舌の嵐です。
「二兎を追う者は一兎を得ず」は、中也が文学に傾きかけて学業をさぼり始めた頃の父の酩言。毎日1回これを言いました。中也が呼びつけられると、弟達がまた「兎」かと言ったほど。
「乞食か、さもなければ勉強か」と謙助。中也は、「やります」と応じます。最期に不言実行と言えという。中也は「不言実行です」と答えます。謙助はこれで一日の行動を終えた気になって眠気を催します。寝室に行く時、「長男であることを忘れてはならんぞ」という声が追ってきます。あとは、鼾だけでした。          
中原思郎の回想記『長兄』


                    ◆◇◆


        
         小学校6年生の中也の習字        中学2年生の中也の筆になる
         採点は「甲上」で最優秀        「中原家累代之墓」


        
             湯田温泉町吉敷(よしき)川のほとりにある中原家墓所


               
落書きをしろとはいっとらん 〈父の言〉

          そのまま
   〈中也の言〉

中学に入ると中也は勉強しなくなりました。厳格で頑固な父に対する反抗です。
文学への芽吹きは、すでに小学校5年生の時、短歌に傾倒する形で現われ、成績が下がっていったのもこの頃です。

母フクと共に「婦人画報」に短歌を投稿。母は落選するも中也は掲載されました。
父謙助は中也が文学に染まることを極度に恐れ、中也は隠した文学書を父に見つけられ、手荒く叱られて納屋に監禁されました。

父謙助は習字に興味を持っていました。研究心が強く、達筆の手紙が来ると何度も手紙の字のあとを指先でたどりました。母は、漢学者に手ほどきを受けたほどで、父母はよく習字について議論。母は、原則を尊重、父は個性を主張しました。

だが、この習字こそ中原家の子供達をもっとも震えあがらせたものでした。
  父はストレス解消法として習字を書かせたのです。
大人達の習字に対する執心は、しばしば子供を苦しめました。父は仕事上で不愉快なことがあると、子供に習字を書かせました。小さな不愉快なら「十枚書け」、大いに不機嫌なら「百枚書け」というように、不快指数を習字の枚数で表示したのです。

「この字は眠っとる」「この字はベースボールをやっとる」という評価のものは枚数に計上されません。「落書きをしろとはいっとらん」となると御破算で一枚から書き直しさされるのです。兄弟の中で中也だけが資質に恵まれ、習字をものした中也は、弟達に対し長兄としての格式を感じさせる恩恵を蒙っています。

中原家の墓碑銘「中原家累代之墓」「中原政熊之墓」の文字は中也の筆になるものです。
父謙助は始め専門書家に書かせるつもりでした。しかし、彼らの字に満足できず、中学2年の中也に思い出したように書かせました。
障子も襖も取りのけられた三間続きの部屋に大きな紙が数枚置かれ、父・母・祖母・四人の弟達に囲まれ、中也は一枚の紙の前に立ち、大きく足を開いて深呼吸しました。最期の一枚は、半ば敷居にかかって全体に波ができていました。母が平らな場所に移そうとすると、中也は「そのまま」といって、何かを決意したような顔になり、一気に筆を走らせました。
その後、ほとんど見直しもせず、風呂にいってくると外に出ました。口笛の音が聞こえて姿は見えなくなりました。

この場の様子を、弟の思郎氏は「大戦争が終わったような感じであった」と述べています。父は中也の書いたものを採用しました。字の巧みさに比べ、中学校の成績が次第に悪くなっていった頃(期末試験で成績が120番/130人中、に下落した直後の大正14年8月。14歳)の、久しぶりの緊張をもって、中原家の長男としての任を果たしたのです。
父謙助はその後、昭和3年(1928)5月16日、享年52歳で中也の字を刻んだ墓の下に葬られました。


          
記事中のエピソードは、中原呉郎『三代の歌』、中原思郎
            『長兄』より引用。中也の習字の画像は、『別冊太陽 中原
             中也』(平凡社)より転載。