樹海




     
   西湖(にしのうみ)と呼ばれる富士五湖の畔り周囲一六
       平方キロ、針葉広葉の原生林が太古そのままに樹海を成
       している。迷い込めば土地の者すら出口を見失う死の迷
       路である。
        自殺者の密入地としても知られ、今もなお推定百余り
       の骸
(むくろ)がその奥に眠り続けるという。
        西湖近くの高台に立ち、私が初めて樹海を見渡したの
       は穏やかな初秋の午後であった。
        中央を白く輝かせた、波一つない眼下の湖面、茶褐色
       にかげる溶岩の岸辺。対岸からひろがるなだらかな樹木
       の群落。その果ては遥か正面の富士の山裾までも覆いつ
       くし、澄んだ大気の底に青黒く息づく相貌は、巨大な爬
       虫類が横たわっているようだった。
        その日遅く、富嶽の旅から立ち返ると、登山靴のまま
       私は都心の一角へ足を早めた。
        夜空の彼方に赤く点滅する超高層ビルの航空障害灯、
       その谷間の公園で、大理石の石組と人工の泉を見つめる
       静かな瞳が、火山土に汚れた重い靴音を待っているのだ
       った。
        深夜、頭上近く月が昇り、柔らかな微光がビルの壁面
       を照らし始めた。このひと時、細い肩を抱きしめる自分
       の腕の異様な蒼白さを見つめる内に、一つの幻影が浮か
       んできた。
        原生林の闇を透き、溶岩流土の底深く、永遠に抱き合
       う二体の白骨  それは今夜同じ月光に貫かれた私たち
       の蒼白の陰画
(ネガ)だった。自分に寄り添う石灰質のマ
       スク、人の面影は消滅し黒く深い眼窩が星へ向かっていた。
                       
詩集『アンコール』


                      ● ●


富士山麓の樹海は、自殺者が多いことでテレビでも度々取り上げられています。樹海は まだ訪れたことはなく、作中の情景は想像で描きました。
小説家・松本清張に樹海を舞台とした小説があり、原作を映画化したものを参考にしました。詩はフィクションも取り入れられることを みた実験作です。
男女の恋愛をモチーフにしていますが、互いが抱き合う時、恍惚感と同時に、このまま死んでしまうのではないか  そんな〈死〉を予感するような戦慄に襲われることがあります。
その〈死の意識〉を、樹海の奥で抱き合う白骨の幻影を用いてイメージ化しました。