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樹海
西湖(にしのうみ)と呼ばれる富士五湖の畔り周囲一六
平方キロ、針葉広葉の原生林が太古そのままに樹海を成
している。迷い込めば土地の者すら出口を見失う死の迷
路である。
自殺者の密入地としても知られ、今もなお推定百余り
の骸(むくろ)がその奥に眠り続けるという。
西湖近くの高台に立ち、私が初めて樹海を見渡したの
は穏やかな初秋の午後であった。
中央を白く輝かせた、波一つない眼下の湖面、茶褐色
にかげる溶岩の岸辺。対岸からひろがるなだらかな樹木
の群落。その果ては遥か正面の富士の山裾までも覆いつ
くし、澄んだ大気の底に青黒く息づく相貌は、巨大な爬
虫類が横たわっているようだった。
その日遅く、富嶽の旅から立ち返ると、登山靴のまま
私は都心の一角へ足を早めた。
夜空の彼方に赤く点滅する超高層ビルの航空障害灯、
その谷間の公園で、大理石の石組と人工の泉を見つめる
静かな瞳が、火山土に汚れた重い靴音を待っているのだ
った。
深夜、頭上近く月が昇り、柔らかな微光がビルの壁面
を照らし始めた。このひと時、細い肩を抱きしめる自分
の腕の異様な蒼白さを見つめる内に、一つの幻影が浮か
んできた。
原生林の闇を透き、溶岩流土の底深く、永遠に抱き合
う二体の白骨 それは今夜同じ月光に貫かれた私たち
の蒼白の陰画(ネガ)だった。自分に寄り添う石灰質のマ
スク、人の面影は消滅し黒く深い眼窩が星へ向かっていた。
詩集『アンコール』
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富士山麓の樹海は、自殺者が多いことでテレビでも度々取り上げられています。樹海は まだ訪れたことはなく、作中の情景は想像で描きました。
小説家・松本清張に樹海を舞台とした小説があり、原作を映画化したものを参考にしました。詩はフィクションも取り入れられることを みた実験作です。
男女の恋愛をモチーフにしていますが、互いが抱き合う時、恍惚感と同時に、このまま死んでしまうのではないか そんな〈死〉を予感するような戦慄に襲われることがあります。
その〈死の意識〉を、樹海の奥で抱き合う白骨の幻影を用いてイメージ化しました。
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