雨の履歴書




      
一九五一年 夏
      
一歳の誕生日
      私は生まれて初めて雨を見たという
      目を大きくあけたまま雨粒に見入っていたと
      今年八十八を迎える母は今も笑って懐かしむ

        昭和二○年 八月六日
        朝陽を受けてきらめく一粒の光の玉が
        広島の空の奥からゆるやかに落ちてきた
        空襲防火の家屋取壊し作業の手を休め
        七十四歳の祖父は物珍しげに眺めている

      一九六一年 秋
      小学六年生の私は頬をゆるめて雨を見ていた
      体育の授業が休講となったからだ
      病弱な私には鉄棒 跳び箱 すべての運動が
      級友たちから嘲笑を浴びる苦痛の時間だった
      私は雨の日を喜ぶ心さびしい少年に育った

        昭和二十一年 九月
        シベリア極北の強制収容所(ラーゲリ)で
        父は激しく屋根を打つ雨音を聞いていた
        嵐で屋外作業が中止になった
        服の網目まで巣くう虱を
        三十四歳の父は
        一つ一つ心ゆくまでつぶした

      一九七四年 春
      大学生の私は祖母を九十七年支えた背骨を
      慣れない箸で拾った
      焼場を出た頃 雷雨が土をはじき始めた

        昭和二十二年 五月
        満州から帰り着いた母に二年遅れ
        復員した父には 祖父の骨灰すらなかった
        残されたのは どす黒い俄雨を浴び
        それ以来 髪の薄くなった祖母だった

      一九八九年 冬
      元号は平成と改まった
      祖母の祥月命日の読経が流れる
      氷雨に降り込められた幼い日に
      祖母の膝で聞いた昔語りが蘇る
      おじいさんは山へ柴刈りに おばあさんは
      川へ洗濯に──のう、トシ坊。
       じいさんはの、軍の仕事を手伝わされての、
       ピカ(原爆)の真下に立っとりんさったけえ、
       つまらん(影も形もない)ことになってしもうた。
       ほいでも(それなのに)、わしゃの、そん時、
       裏の太田川へ洗濯に行っとったんじゃ。
       土手の影におったけえの、閃光(ひかり)も爆風(かぜ)も
       あたらんで、うち(自分)だけ助かったんよ。

      二○○五年 夏
      太田川を見下ろす墓石に父の名を刻んだ私は
      祖父を喪った日の父の歳を二十二年も越えた
      私は家族を濡らした昭和の雨の冷たさを知らない
      私が知ることができるのは父亡き後
      老いた母と過ごせる残された時間である

                     
2005年国民文化祭入選作品

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明治生まれの父は、この時代の男性らしく自己の人生について多くを語りませんでした。また、生来、寡黙な人柄でした。ですから、私は父の半生についてほとんど知る機会はありませんでした。そんな父の生涯を知るきっかけとなったのは、私の就職活動でした。ある志望会社に応募書類を送る際、保証人のかなり詳細な履歴書を提出するよう求められました。

几帳面な父は、紙幅を費やして細かい経歴をつづってくれました。そこには、私のうかがい知ることのなかった昭和史が刻まれていました。
戦前は旧満鉄での勤務、終戦前の現地召集、戦後のシベリア抑留、帰国後は郷里広島での家族の原爆死。一人の平凡な市民の人生を、苛烈な歴史が縦断した痕跡が鮮やかに残っていました。
履歴書には、それらの事柄が箇条書きにされているだけです。

私はその行間を、自分の乏しい想像力と参考文献で調べた知識によって、ひとこまずつ埋めてみようと試みました。そして、私の生い立ちとひ弱さを象徴するような〈雨〉というキーワードで、私と父の時代の流れを対比してみたのです。