利害得失の眼を捨てる・・
ものと友達になる心

                 星座

    砂浜に手鏡が落ちていた そのおもては幾筋にも割れていた 子
    供が見つけて 鏡はひとかけらずつ海へ投げ捨てられた 潮の引
    いた夜 干潟の上に破片がふたたび現れた 月明かりの下で 互
    いに知らせあうように小さくきらめいていた 決してもとの形に
    かえれぬものが 光によって結ばれあっていた 干潟の上に名も
    ない星座を輝かせて
                        
詩集『アンコール』

                     
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「星座」の詩は、夏の磯辺から生まれました。海から打ち寄せられる海藻にまじってきらめくものがありました。見れば鏡の破片です。それはあちこちに散らばっています。そこから詩の発想が芽生えました。
砂浜に落ちていた小さな、ひび割れた鏡。子供の意味もないいたずらで、それはいったん海に沈む。が、潮の引いたあとで、鏡の破片は月光にきらめき合い、ひとつの星座を形作る  このひとつひとつの破片を、今は遠く離れた仲間に重ねてみます。かつては共に活動した仲間が、時の流れの中で、鏡が割れるように散り散りに別れています。個々の友人を星に見立て、彼らとのネットワークの輪を星座にたとえてみたのです。
割れた鏡の破片は、何の役にも立たないものです。海辺のゴミ以上の存在ではありません。でも、それは私たちが利害得失の眼で、ものを眺めた時の話です。
詩の場合は違います。私は「星座」の詩を書くことで、この破片と強く結ばれました。それは私の思いを語る大切な存在なのです。
損得勘定の心には、ものそのものの姿は見えません。でも利害を離れれば、人はものと友達になれます。高田敏子がこのことに触れた言葉を紹介しましょう。

『詩の世界』(ポプラ社、1996年)より      高田 敏子
わたくしたちは人との触れあいの中で生きています。父母、兄弟姉妹、そして先輩や友人たち、多くの人たちのなかで、教えられ、導かれ、あたためられて生きているわけですが、その反面、人との交際は疲れることも多いといえるでしょう。おたがいに、それぞれの性格があり、思い方や考え方のちがいがあり、また自分の立場を守るための競争もありますから、社会にでてゆくにしたがって、傷つくことにも出会い、さびしい思いをすることにもたえていかなければなりません。
そうしたさびしさのなかで、自分を支えるものは、結局自分の力であり、自分を元気にすごさせるものは、自分の心のもち方以外にないことに気づきます。
人以外の、
ものとも友だちになれる心をもつことは、さびしさや孤独感をなぐさめる大きな力になることはいうまでもありません。また、人以外のいろいろなものが、自分にとってどのような存在であるのか、いろいろに思ってみることで、はじめてそのものの価値に気づく、ということもあるでしょう。