帰宅



         
戸口に足音が近づくと
         誰もいない部屋の中で
         ゆっくりと起き上がるものがある
         鍵をまわす間 それは扉のうしろにたたずむ
         錠がはずれる 取っ手に手を伸ばす
           てにひらにしみる濡れたような冷たさ
         今 自らの不在と静かに手を握り合う

                        
詩集『アンコール』

                     
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独身の頃、一人暮らしの部屋に帰っていくと、誰もいないはずなのに、ドアの向こうで〈ゆっくりと起きあがるもの〉がいるという幻覚を覚えたことがあります。ドアのノブに手をかけると向こう側でも、同じ動作をする気配を感じます。
ドアの取っ手の、冷たい金属の触感が、向こうにいる者の手を握ったように手のひらにしみました。
もちろん、現実にはそんな幻影がいるはずもないのですが、あれは言わば、私の〈不在〉の影だったと解釈しています。
自分がそこにいない淋しさがもたらす、不在の冷たさのようなものであったと。