「てのひら」の構成は、1連で愛情を与える「あなた」を描き、2連で〈目かくしをされ〉愛情を受ける「私」を、3連で「あなた」と「私」の相互の交感をうたった3部構成で、ここまでは自分なりにイメージを組み立て、何とか最小限、傷を抑えています。 重傷は、四連以降。 〈波が ひびわれた爪を浸す〉は、ひびわれたような孤独で乾いた心を、あなたの優しさが波のように潤す、という心象を表現しています。 この一行、今読み返すと、なんとも恥ずかしい。恋愛を理想化する青年特有の実感でしょうが、てのひらの連想からか、唐突に「爪」を出すなど、構成が不徹底でイメージの詩的消化が足りません。 さらに詩想は、「あなた」のやさしさの中で、私の心は〈静かに眠る 貝になる〉とエスカレートしていきます。孤独に疲れた傷心の「私」は「あなた」の愛に包まれ、癒される、という浄福感をうたっているのです。 作品中、ここが最も甘ったるい箇所でしょう。青臭い、陳腐なセンチメンタリズム。 この歯の浮くような感傷をもたらしたのは3連の〈暗く閉じた手〉という、寂寥感を比喩する言葉が、そもそもの元凶になっています。 凝縮の精神と装飾の精神 「てのひら」だけに焦点を絞ればよかったのですね。詩は一品料理と、常々高田敏子先生が説くように、一品で完結させればよかったのです。 それを欲張って、海のイメージを割り込ませ、あげくは「貝」まで登場させ、夢想的感傷で詩を締めくくろうとして一篇を台なしにしました。 これが若年の未熟さでしょうが、矢沢宰を越えようとして、見事に自己破綻してしまいました。 まさに「破廉恥罪」。詩の世界でプロと初心者の違いを考えるとすれば、プロは言葉を削ることに全力を尽くす、ということになるでしょうか。 一方、初心者は言葉をつけ加えることに情熱を注ぐようです。凝縮の精神と装飾の精神の差というべきでしょうか。 連想の湧くまま手をひろげ、あれもこれもと欲張って、自分のテーマを見失い、作品を破綻させる。これが初心者の最も陥りやすいバブル的パターン。私の失敗例で明白です。 しかし、私の欠陥詩を救いあげ、再生させたのが、選者・高田敏子の添削でした。