落書
          
中国・長沙(ちょうさ)




     
湘江(しょうこう)の流れは南へ
     風の波紋は南から北へ川面をのぼる
     
橘子州頭(きっししゅうとう)  みかんの木の続く中洲を歩く
     点点とならぶ煉瓦造りの家をぬって河畔に立つと
     対岸に 蒸気機関車の吐く白い煙が尾をひいている
     あたりは静かだ 行き会う人影もなく
     時おり みかんの木の梢から小鳥のさえずりがふってくる

     中洲の突端から石段を降りると 干潟がひろがっている
     水際近く 十メートル四方の大きさで
     一篇の漢詩が砂地に書かれてある
     誰の手になるものか 流麗な砂の扁額だ
     眺めていると 干潟を切り取ってでもそのまま持ち帰りたく
      なってくる
     たとえ写真におさめ 手帳に書き写しても
     すべては虚しい仕業だろう

     夕陽が淡く波にそそぐ
     冷たさをました川風が 少しずつ砂の筆跡を消していく
       ほんとうに手に入れたいものは
       いつも目の前で消え失せる
     帰りの時刻はせまっていた
     私は足許が薄闇に包まれるまで
     干潟の上を離れなかった

     都会の黄昏
     勤めを終え私は吊革にもたれて帰路につく
     はれぼったい疲れを 電車の揺れにまかせていると
     中国を旅したことが 今は何もなかったように遠い
     ただ 胸の中に一枚の落書きがあって
     車窓から吹き込む風が頬を打つたびに
     言葉の消えていくかすかな音が響いてくる

                        
詩集『アンコール』

                   
● ●


中国を旅行した時の印象をもとに詩作しました。「長沙 」という街は現代中国の生みの親、毛沢
東の郷里です。市外の突堤から河原におりると、大きな文字で砂地に漢詩が書かれていました。見事な筆跡に目を奪われ、そのまま日本に持ち帰りたい思いでした。現地のガイドの方の話では、こうやって自分の詩を砂地に落書きするのが、市民の間で流行っているそうでした。

世の中には宝石のように手に取って持ち帰れる美と、夕映えのように人の手では決して持ち帰れない美があります。

私はこの落書きが、人生で味わった様々な喪失感の象徴のように思えて、〈ほんとうに手にいれたいものは/いつも目の前で消えうせる〉という独白を作品に添えました。