イエスの衣(ころも)

●群衆の中の奇跡
新約聖書のマルコ伝第5章第25〜34節(新約70頁)に、不治(ふち)の婦人病にかかった女性が、その苦しさのあまり、イエスを見るために集まった群衆の影に隠れ、その衣服におずおずと触れてみるという場面があります。

「ここに12年、血漏
(ちろう)を患(わずら)える女ありて、あまたの医師にかかりて様々に苦しめられ、持てる物を悉(ことごと)く費(ついや)したれど何の効(かい)もなく、却(かえ)って益々悪(あし)かりしに、イエスのことを聞きしかば、雑踏のうちより後(うしろ)に来りて、御衣(みころも)に触(さわ)る、『その衣にだに触らば救われん』と自ら謂(い)えり。かくて血の泉直(ただ)ちに乾き、病のいえたるを身に覚えたり。イエス直ちに能力の己(おのれ)より出でたるを自ら知り、群衆の中にて、振反り言い給(たま)う『誰が我の衣に触りしぞ』・・」

女性はこれまで悪徳医師にだまされたり、高額の医療費を奪われた苦い経験がありました。ですから、奇跡を起こす聖人がいると聞きつけ、藁をもつかむ気持ちで近づいたに違いありません。
私はこの一節をカトリック作家・遠藤周作のエッセイで教えられました。
作家は、その小説的想像力でこのシーンを次のように再現しています。

おずおずと触れた指で、イエス様は彼女の今日までの苦しさのすべてを、その藁をもつかみたい気持ちを一瞬に感じ取ります。
「誰かが、私の服に触れた」と、イエスは弟子を振り返ります。
弟子たちは笑いながら答える。これだけ、おびただしい人がいるのです。ぶつかるのも仕方ないでしょう。
「いや、そうではない」とイエス様は首を振る。その後、自分を見つめている多くの顔の中から、おびえた女性の表情を発見します。
一種の奇跡物語ですが、そのことより、おずおずと衣服に触れたその女性の一本の指から、彼女の切ない苦しみのすべてを感じ取ったイエスの、恐ろしいまでに繊細な感受性に私
(遠藤)は感動します。

たくさんの人々の陰から、そっと差し出されるふるえる指。衣にかすかに触れられただけで振り向き、不幸な女性に向き合ったイエス様の辛そうな表情。それらすべてが、このおずおずとした指一本からはっきり想像できます。
弟子たちは、女性がどんな哀しげな目で、イエス様を眺めていたかを覚えていたし、振り向いた辛そうなイエス様の顔も忘れることができなかったはずです。                  
遠藤周作『私のイエス』祥伝社

●恩師の横顔
弟子というものは、敬愛する先生の表情をよく覚えているものです。
次元は違いますが、私にも同じような経験があります。
私の師は詩人の高田敏子ですが、ある夜、ご自宅を訪ねた帰り際にお茶を勧められたことがありました。
当時、学生だった私は師たる人への尊敬と気おくれから、遠慮して帰りました。その時、先生の横顔にかすかに寂しさの影が横切ったように見えました。

先生が亡くなられてから、あの時、我が身に振り向けられた恩師のやさしさを、どうして自分は受け止めなかったのか、と後悔しました。
受け損なったやさしさは、もう一生取り戻すすべはありません。
あの夜、先生は一介の学生でもよいから、仕事が終わった後の、ほっとしたひと時を、誰かと共に過ごしたいと思われたに違いありません。

病いに苦しむ女性がイエスに触れる場面が、目に浮かぶようなリアリティーをもって私に迫ってくるのは、この光景を弟子たちが鮮やかに覚えていたからだと思うのです。
私が恩師の一瞬の表情を、没後20年近くたっても忘れられないように、聖書記者である使徒たちはイエスの顔を生々しく記憶に蘇らせながら記しているのでしょう。

●デリケートな花の心
花の詩画作品「秋桜」は、聖書の“衣のエピソード”に想を得て作っています。人が通り過ぎただけでも、かすかに揺れる秋桜の細い茎。
裾に触れた一本の指に、群衆の中でも気づいた聖人は、花のデリケートさにも等しい繊細な心の持ち主です。私もまわりの人たちの心模様を感じられるほど、しなやかな感受性を持てればと願っています。


              
秋桜

           かぼそい花枝が
           そばを通り過ぎる人の
           小さな風にゆれている

           私はあなたの心の風を感じて
           思いをゆらせただろうか

           かすかな眼のかげりにも
           心を届かせただろうか

           日々ふれあう人たちの
           胸のうちが思われる
           秋桜の花野にいて


                          2006.12.18