春愁・・

                (いし)のうへ

                       
三好 達治



             あはれ花びらながれ
             をみなごに花びらながれ
             をみなごしめやかに語らひあゆみ
             うららかの跫音(あしおと)空にながれ
             をりふしに瞳をあげて
             翳
(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
             み寺の甍
(いらか)みどりにうるほひ
             廂廂
(ひさしひさし)
             風鐸のすがたしづかなれば
             ひとりなる
             わが身の影をあゆまする甃のうへ

                        
『測量船』1930年(昭和5)


この詩に出会ったのは高校三年生の春。受験参考書『現代国語の読解法』(1968年・旺文社刊)を開いた時でした。
著者は成城大学教授(当時)坂本浩。受験参考書ながら、単なる試験ノウハウ本とは異質。私にとって文学啓蒙、人生指南の書として、今も愛読しています。
坂本先生は、このように語句を説明されています。

〈あはれ〉古文で心に深く感じた場合の「ああ」という感動詞。〈ながれ〉落花の様を水の流れのように「花の川」として捉える。〈しめやかに〉和服の二人連れが静かに語らいながら歩む姿をイメージ。〈うららかな跫音〉敷石に響く女下駄の軽やかな音。〈すぎゆく〉女人が過ぎるとともに、春の時間が移ろい過ぎてゆく。〈風鐸〉寺の軒の四隅に吊るしてある青銅の鈴。〈みどりにうるほひ〉青錆びた翠緑。しっとりと濡れたような緑色。
各行末尾の〈ながれ〉〈あゆみ〉の連用形の重なりが、流れるようなリズミカルな調べを与えている。

花びらは上から下へ流れるが、逆に足音は下から上へ〈空にながれ〉る。歩む人達の視線も〈をりふしに〉(時折)上に向けられる。
「み寺の春をすぎゆく」のは「をみなご」。
しかし、そのはるか背後に、時の流れが春をすぎてゆく。時はまさに桜の散りしきる晩春の頃であれば。

詩の中核は〈ひとりなる/わが身の影をあゆまする甃のうへ〉。〈あゆまする〉は「歩む」と異なり、何かがそうさせる(使役)を表す。自分の意志で歩いていくというより、深い物思いにふけり、自分の影を見つめながら、歩くともなく歩いている。
感じやすい近代人の心は、まわりのものが明るさに輝いていればいるほど、詩人の胸にはゆえ知らぬ孤独感が湧いてくる。落花の華やぎ、女性達の笑いの中で、自分の影を見つめる詩人の孤独な姿が浮かんでくる。

以上、詳細を極めた分析の中で、白眉といえるのは上下相反する方向がバランスを保ち、作品空間に詩的な緊張感を与えているとの指摘です。

春爛漫の光輝く世界の中で、花の美しさに背を向けるようにひたすら自分の影を見つめ、もの思いにふけりながら歩を進める詩人の姿。
私たちにも桜の華やぎに身をひたすことができない辛い時があります。
心に憂悶を抱えたり、気がかりな問題に悩む折は、まわりの華やかさについていけないような淋しさを覚えます。むしろ冬の季節の方が落ち着くような孤独感に陥っています。

タイトルの「甃」という複雑な漢字は、一字では〈しきがわら〉と読みます。
奈良・京都の寺社の境内に、瓦を道に敷いている風情のある小道があります。欧米の石畳に相当するものですね。作者はこの敷き瓦を〈いし〉と読ませ、その硬質で冷たい響きに、桜花の中で醒めている心を滲ませているかのようです。

全編、擬古文で書かれた古風な筆致でありながら、詩の内容は桜の讃美ではなく、現代に生きる屈折した心のありようを謳っています。そこにこの作品の新鮮な味わいがあります。
なお、詩集タイトルの「測量船」とは、本来は海の深度を計測するものですが、作者は比喩的に名付けたと語っています。個々の作品によって、自分の詩の世界の深さを測るために編んだ詩集だから、というのです。

三好達治代表作「甃のうへ」は教科書にも載り、多くの詩人・文芸評論家が鑑賞文を書いていますが、坂本評釈を越えるものはないと私は思っています。


        
三好 達治 明治33・8・23〜昭和39・4・5(1900〜64)。
          大阪市生。東大仏文科卒。芸術院会員。堀辰雄、丸山薫たちと月刊「四季」創刊。
          現代詩の抒情の回復と発展に寄与。
          処女詩集『測量船』(昭5)、四行詩集『南窗
(なんそう)集』(昭7)、『駱駝
          の瘤にまたがって』(昭27)他多数。エッセイ集『卓上の花』(昭27)、『詩を
          読む人のために』(昭27・岩波文庫・現在入手可)。