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塵塚
川路 柳虹(りゅうこう)
隣の家の穀倉(こめぐら)の裏手に
臭い塵溜(はきだめ)が蒸されたにほひ、
塵溜のうちにはこもる
いろいろの芥(ごもく)の臭み、
梅雨晴れの夕をながれ漂つて
空はかつかと爛(ただ)れてる。
塵溜の中には動く稲の虫、浮蛾(うんか) の卵、
また土を食む蚯蚓(みみず)らが頭を抬(もた)げ、
徳利壜(とっくりびん)の虧片(かけら)や紙の切れはしが腐れ蒸されて
小さい蚊は喚(わめ)きながら飛んでゆく。
そこにも絶えぬ苦しみの世界があつて
呻(うめ)くもの死するもの、秒刻に
かぎりも知れぬ命の苦悶を現(げん)じ、
闘つてゆく悲哀(かなしみ)がさもあるらしく、
をりをりは悪臭(をしう)まじる虫螻(むしけら)の
種々のをたけび、泣声もきかれる。
その泣声はどこまでも強い力で
重い空気を顫(ふる)はして、また軈(やが)て、
暗くなる夕の底に消え沈む。
惨(いたま)しい「運命」はたゞ悲しく
いく日いく夜もこゝにきて手辛(てがら)く襲ふ。
塵溜の重い悲しみを訴へて
蚊は群(むらが)つてまた喚く。
1907年8月
川路柳虹(本名・川路 誠 1888-1959)は、口語自由詩のさきがけとなった明治期の詩人です。
当時は、七五調のスタイルが全盛でした。七五調の歌うようなリズムは心地よいのですが、情感だけに終わる弱さがあります。明治の詩人たちも、情緒的甘さを自覚し、話し言葉と同じ口語自由詩を試みる動きが出てきました。
代表作は表現・題材共に革新的な川路柳虹の「塵塚」。
今の時代に読んでも、その斬新さは驚くばかりです。
柳虹が「塵塚」を書いたのは若干19歳。千編一律の文語詩に対する挑戦状を叩きつけたような、青年客気にあふれています。
「塵塚」への批判はすさまじいものでした。轟々たる詩壇の非難の渦に、柳虹は自宅に帰り着いたとたん卒倒したとのエピソードが残っています。
発表時の1907年は明治40年。3年前に日露戦争が勃発しています。近代の黎明期にあって、柳虹の「塵塚」は、驚天動地の衝撃力があったことが想像できます。
柳虹が活躍した時代から、百年余り。詩の表現こそ口語自由詩となりましたが、詩はロマンチックなものという固定観念から、五七調の時代とさほど変わらない題材を見受けることがあります。
生活実感のある題材より、自分の日常とは関わりのない遠いもの、観念的なものを追い求める傾向がいまだ根強いようです。
私も詩を書き始めた頃は、どれも類型的な印象が強いのは、題材の範囲の狭さに要因がありました。
詩を書く時だけ、よそ行きに着飾らず、普段着の精神で書きたいものです。それが個性にも繋がるのではないでしょうか。
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