薮椿




     雨の雫を含んで椿の花首が重い。
     梅雨を迎えた郊外の峠道である。坂道の途中に鮮やか
    な椿の古木がある。
     五歳の私には気味が悪かった。雑木林のうす暗がりの
    中にどんよりと浮かぶ花弁の色が陰気だった。木の根元
    に散り敷いた落花が水腐れし、甘く饐えた匂いが、風に
    乗って鼻をついてくる。
     坂を登る度に、行く手に椿の木が魔の気配のように佇
    んで、じっと待ちかまえているように思う。
     峠を抜けると母の実家がある。母は長く里帰りをして
    いる。週末になると、父が坂を登ってくる。母と私を連
    れ戻しに来るのだが、一夜明けると、また一人で同じ坂
    を降りていく。
     父を見送るのは私の役目である。
     が、どうしても坂の下までは降りようとはしない。
    坂下の石垣の中に蛇がいると言ってきかないのだ。
     とある日、石垣の上をくねってゆく光を農夫が見つけ
    た。農夫がからかって枯れ枝でつついたら、不意に飛び
    かかって彼の頬に喰いついた。銀色の身が刀剣のように
    顔からぶらさがったという。
     それを言い訳にして、父の見送りは坂の途中までと一
    人決めしている。本当はこのまま父について行ったら、
    もう母の許には二度と戻れないような気がする。
     母は里へ帰ってから口をきかなくなった。家に引きこ
    もり、生来の白い肌が青く透き通っている。仄暗い部屋
    に水母
(くらげ)のように浮かぶ顔の中で、唇の色だけが
    熱を帯びてなまめかしい。母の物狂わしい表情を思うと、
    私は家に戻りたくなかった。
     父を見送って坂の上に立つと、座敷から伸びてくる母
    の視線が私の細い肩を掴んでいる。私の心は遠ざかる父
    の背に張りついて離れようとしない。こんな感情の惑い
    を父も母も知らない。
     ただ、あのうす気味の悪い椿だけは違うと、幼い心は
    考える。自分の心の秘密をきっと嗅ぎわけていると信じ
    ている。
     もし、父と並んで坂を下り、椿のそばを通ったら、椿
    は父の胸に囁いて告げ口するに違いない。
     私の目に花々は薄く口をあけた血の唇をしている。

                       
詩集『白夢』

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幼い頃の私は、神経質で臆病な子供でした。家の奥座敷
に飾ってある、黒光りする布袋様の置物が怖くて、私がいる時は押入れにしまわせたほどでした。

母の実家に行く山道のそばに、大きな椿の木がありました。いつも真っ赤な花をつけていて、雑木林の暗がりの中で毒々しく見えました。
私はその薄気味の悪い椿のそばを通るのが嫌で、そこをよけるように行き過ぎていたのを覚えています。

そんな私の性情は、今思えば感受性が人一倍強かったということになるのでしょうか。でも、当時の私は何を見てもおびえる、おかしな子だと家族からは思われていたようです。
嫁姑の間の確執から、母が一時、実家に里帰りしていたことがあって、その日々を下敷きに、幼年の日の心象風景を薮椿を中心に描きました。