アンコール




       
最後のしずけさの輪が 聴き入るすべての魂の
       遠い岸辺をうるおすのを確かめ
ると
       少女はすみやかに立ち上がって一礼し
       蒼ざめた頬をすこしほころばせながら
       舞台を去っていく

       あまりにもはやく
       鍵盤のそばからすりぬけてきたために
       舞台の上に まだ自分の影をすわらせたまま

       やがて忘れ物をとりにきたように はにかみながら
       ふたたび楽譜の前にむかった少女は
       拍手のさざなみに洗われて
       いまはドレスよりもかがやく
       自分の影をゆっくり身にまとう

       そしてもう一度
       人々の深くしずまる森にかこまれた
       すみわたる時のおもてに 手をさしのべ
       ひとしずくの永遠をしたたらす

                         
詩集『アンコール』

                     
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作中の時間設定は演奏終了からアンコール曲を弾く直前までのわずかな時間を扱っています。
どんな表現力をもってしても、音楽の旋律美を紙上に再現することは不可能でしょう。
それで私はアンコール演奏を始めるまでのピアニストの姿を、詩のイメージを駆使して再現しようと試みました。
それでは、各々の詩章に込めたイメージについてお話しします。

・最後の静けさの輪が
客席の聴衆をひとつの湖のように見立てています。終曲の余韻が、聴衆という 〈湖〉に波紋のように広がる様子をイメージしています。〈遠い岸辺〉とは客席の最後尾まで余韻の波が浸透したことを譬えています。

・舞台の上に まだ自分の影をすわらせたまま
演奏者が足早にステージから立ち去っても、聴衆の目には感動の余韻の中で、まだピアニストの影が匂い立つように映るのです。

・人々の深くしずまる森
アンコールを待ち望み、じっと息をこらす森のように静まる聴衆を表します。

・すみわたる時のおもて
演奏前、会場を流れる時間は日常とは異なる静謐な時間です。この純粋で静かな時間を清らかな〈湖面〉のイメージにたとえています。

・拍手のさざなみに洗われて
拍手という賞讃を浴びて、演奏者は弾奏前と比べて別人のように輝やいて見えます。それは豪華なステージ衣裳の輝きを遥かにしのいでいるでしょう。聴衆は現実の演奏者の上に、神秘的で高貴な芸術家の姿を重ねて見つめています。ピアニストがまるで見えない栄光の影を身にまとっているようです。

・ひとしずくの永遠をしたたらす
ピアニストが鍵盤の上に静かに指を降ろす一瞬を、静寂という〈湖〉に永遠性を秘めた音の調べを、しずくのようにしたたらすとイメージしました。

この作品では言葉の選択、情景すべてを水のイメージで統一しました。水の持つ清浄さ、魂を誘うような夢幻的な性質が、音楽の世界に溶け合うように思えたのです。